新潟漆器の歴史

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新潟漆器のむかし

平安時代から新潟の漆は有名
漆は古代から貴重に扱われていたものでした。古く平安時代には漆の管理をする「漆部司」という官職が大蔵省の被官として存在しました。 大同3年(808年)に「漆部司」は「内匠寮」に合併し、漆の管理だけでなく漆器の製作を行うようになります。「内匠寮」は、天皇家の調度品や儀式用具などの製作を職掌とし、様々な職人がいました。これを日本の工業の起点とする説もあります。
新潟県は漆液の産地であり、漆をもって正税に代えて納入することができました。産出した漆と金漆は「庸」と定められ、「民部省」によって管理されていました。「民部省」は律令制下の八省の一つで、財政・租税等を管轄していました。 このように「新潟県の漆」は、古くから特産品として貴重に扱われてきたものでした。

新潟での漆器製作
では、漆器が新潟で生産されるようになったのはいつ頃かというと、諸説がありますが、鎌倉時代の親鸞や日蓮の配流がきっかけと云われています。その頃新潟でも寺院などの建築が盛んになり、京阪地域から仏師を招聘し、漆器の技術を学び発展させたという説が主流です。
また、少し時代が下がって戦国時代になると武具や馬具にも漆が使われるようになり、上杉氏は漆樹の栽培にも大きく力を入れたと伝えられています。

新潟漆器の発達は北前船とともに

新潟漆器を県内他産地と比較する
近世から近代、新潟県内の漆器の主要産地は、村上・新潟・長岡・柏崎・高田が有名ですが、それぞれの品物には異なる特徴があります。 その特徴は交易ルートや支配関係による人の伝来と密接な関係があります。
村上は今でも堆朱が有名ですが、これは江戸堆朱からの伝来。新潟は能代、会津、江戸、輪島の折衷式。中越地方は江戸式。上越地方は輪島式を特徴に持ちます。
特筆すべきは新潟の多様さで、これは北前船最大の寄港地として賑わった新潟ならではのものです。海運と舟運、街道が集中する商都としての新潟の繁栄を今に象徴するものが「新潟漆器」です。

現在の新潟漆器のルーツは江戸時代
古四の町(現在の古町通7番町)において、絹や木綿、紙などを商っていた者が、その傍らで伝来伝習された技法により春慶塗の器物を作ったことが起源とされています。これは能代から伝えられたとされ、元和時代(1620年頃)のことです。 それから寛延時代(1750年頃)までは春慶塗、煤掃塗の技法を用いて板折敷、行厨、膳、重箱などの日用品の製作が行われました。また佛器として白檀塗も作られていたと伝えられています。
寛永15年(1638年)7月、古四の町が塗物専売の地域と定められ官許のもとで営業することとなります。これが椀店(わんだな)の起源です。

天保の頃の新潟町の絵図 古四の町に「椀店」の表記

交易地ならではの諸々
しかし、交易地である新潟にもたらされたものは技法だけでなく、品物そのものも多く入ってきました。寛永時代には会津地方から抹金描畫の良品の移入があり、正徳・享保の頃には輪島塗が盛んに移入されたといいます。
専売地域が定められていたのは一種の保護政策ですが、他町域や問屋、県外産地との販売権限の訴訟事は度々ありました。 これらは当地での販売にあたっての争いですが、幕末近く文政時代(1820年頃)には逆に漆工業者と椀店の間にも争いがありました。漆工業者が地方の注文を受け入れ直移出を試みようとしたことに椀店が待ったをかけたものでした。 これらの史実からも、新潟漆器は新潟の特産物であり、新潟の交易は広範囲で多面的だったということがうかがい知れます。

新潟漆器の発展

多種多様な新潟漆器、それぞれの伝来
明和時代(1770年頃)には三根山藩の藩士渡辺源造が新潟へ来て蒔絵の技法を伝え、会津若松の畑清兵衛は堅塗を伝えました。これは磨かずして光沢のあるものを塗り出す手法です。 文化年間(1810年頃)には弥彦の渡辺縫之守により磯草塗が創案され、金磨塗、銀磨塗なども作られました。
また竹塗の伝来は明治20年(1887年)頃のことです。 橋本市蔵の高弟長谷川善左衛門が来港し、新潟の塗師吉田久平、藤田太三郎らに技法を伝えました。(橋本市蔵は仙台の人で東京に於て鞘塗り師として有名になったが、廃刀令で鞘塗りを廃業。竹模造塗を発明し額面・花生け・菓子器・手箱・煙管筒などに施し賞賛をうけた。)

明治時代の新潟漆器
時代とともに新潟漆器にはいくつかのピークがありました。多様な塗り技法が確立された幕末、元治・慶応の頃に隆盛を極めますが、程なく戊辰戦争が起こり生産が落ち込みます。 この下落基調は明治10年代半ばまで続きました。その後も景気の変動で一張一弛を繰り返しますが、明治末期から大正にかけては安定的に生産は回復しています。
明治の頃の新潟漆器の原材料の産地は、漆が岩船・魚沼・東蒲原、朴が会津御蔵入(南会津地方)、朱は横浜、竹は新潟、松煙が山形最上、砥の粉が大阪、澁が栃尾とあります。
技術の伝播、商品の流通とともに、こういった原材料の流通も興味深いものです。技法の発達とともに使われる材料も増え、調達先も多岐に亘ったということもいえるでしょう。


湊町新潟の文化「新潟漆器」を大切に育みたい

現在は生活スタイルの変化などから漆器を手に取る人は少なくなりました。どちらが先の理由なのかはわかりませんが、職人の数も減っているとききます。しかし、今また新潟漆器を盛り立てる動きがあちこちで起こっています。気軽に参加できるイベント形式のもの、食事や柳都文化を絡めたもの、漆器業の方たちだけでなく周囲の方たちのパワーも後押ししています。

新潟市漆器同業組合のホームページ