福島相馬焼と新潟松郷屋焼の縁

トップページ>>特集・資料>>File.14

福島(大堀)相馬焼と新潟 松郷屋焼の縁

大堀相馬焼とは
大堀相馬焼は、福島県双葉郡浪江町大堀で焼かれる陶器です。300年以上の歴史を持ち、古い時代には多様かつ質の高い日用雑器を多く作りました。近年は・青ひび・走り駒・二重焼の特徴で知られ、1978年には国の伝統的工芸品の指定を受けました。近郷には相馬野馬追の伝統行事もあり、走り駒の意匠は縁起物としても親しまれています。
東北地方屈指の窯業地として栄えた大堀相馬焼の産地は地震による被害を受け、更に原発事故により避難を余儀なくされています。




大堀相馬焼は東北地方唯一の古窯、屈指の窯業地
大堀相馬焼の起源は江戸時代、元禄の初めにさかのぼります。地元大堀の半谷休閑の家僕左馬が相馬中村で陶法を学び大堀に帰って茶碗や日用雑品の焼成に成功したのがその起源だといわれています。
大堀村は地味の悪い山間地でした。煙草作りなどでようやくの生活を維持しており、半谷休閑は窯業を「一村の大業」として育てました。以後、地元の重要な産業として根をおろしていきます。焼成技法がまだ一般化されていない時代であっただけに、藩はその技法の他国流出を恐れ、きびしい保護対策を講じました。見習、弟子を制限し「一子相伝の誓」を固守しました。
しかし、明和四年(1767)上杉藩藩主上杉候によって研修を命ぜられた山形県米沢の相良作兵衛を受け入れた事がきっかけとなって一子相伝の誓は徐々に解かれていきます。
相伝の誓が解かれるにしたがい、対外的な交流も多くなり、加えて一般庶民が焼き物を手掛けるという時代が訪れてきます。焼成技法は一般村民の生活の糧として即座に結び付き積極的に伝習されるようになりました。このことが地場産業として焼き物が根を下ろした背景とも言われています。宝永年間には焼き物生産に従事するものが百戸ほどあったそうです。
このようにして産地が形成され、技法も内外の利点を取り入れ独自のものを確立、東北地方ではもっとも発達した窯場で、隣県への技術指導も多くなされました。 大堀相馬焼は東北地方唯一の古窯、屈指の窯業地であったといえます。

二つの相馬焼「相馬駒焼」と「大堀相馬焼」
編集中・・・

大堀相馬焼の発展期




江戸時代に起きた最大の変化
江戸時代後期になってくると、相馬焼は大変バラエティ豊かになってきます。そして質の高さでも知られるようになります。このような発展の要因を辿っていくと、変化の大きなきっかけは天明の飢饉(1780年代)だと考えられます。

■苦しい農業収入→半農半陶生活者の増加(=新規参入者の増加)
■他の領地からの移民受け入れ
■職階と統制のもとで、下層職人や雇い職人が他所へ流出(=渡り職人の増加)

各地との技術や人的交流が自然発生

この時代に大堀相馬焼に影響を受けた産地
秋田白岩焼、山形平清水焼、米沢成島焼、富山小杉焼、笠間宍戸焼、益子焼などがあげられます。

市場の成熟化過程で起きること
各地との技術や人的交流が発生し、更に輸送手段の発達により物資の往来が活発になります。日常生活の質も向上していきます。

■生活の多様化(=日常生活の質的向上)
■藩の政策として“市場性を重視”
■他の産地との競争(技術・デザイン・コスト)

多様な雑器、質の高い日用品として認知され定着する






越後とのつながり

越後からの移民とその背景
福島県の相馬地方は、相馬氏が支配してきた旧中村藩の領地です。前述しておりますが天明の飢饉の際には農民が激減し、藩主は諸国からの移住を奨励する策を講じました。とくに浄土真宗の門徒に対し「働く者には信仰の自由と土地を与える」と言い、越後から多くの人が相馬地方へ移り住みました。越後の門徒にとっては新しい天地、受け入れた中村藩にとっては復興を支えた原動力でした。

越後からの出稼ぎと技術の持帰り
一方、天保の大飢饉の際には、相馬の技術によって越後へ新たな産業が根付きました。新潟市西蒲区漆山の為八(文化12年〜明治12年)は、天保の大飢饉の際、弟妹とともに大堀へ出稼ぎました。その後、弟妹を残し一人で戻り、三根山藩のお抱えの陶工となりました。当時の相馬焼は既に多様な技術とデザインを確立しており、それらの豊かな技法を身に着けた為八は、身内や近郷の者を陶工として育成しました。当時の品物には相馬焼の技法を顕著に示すものが多くあります。
陶法を覚えた若者達が、松郷屋、平沢、稲島などで窯を築き独立し、日用品から土管までの多様な品物を生産しました。これらを総称し松郷屋焼といいます。
話は少し逸れますが、三根山藩は江戸時代の新潟漆器の発展(あたらな技法の伝習)にも影響を与えています。技術振興、人材育成などに力を注いでいた姿勢がうかがえます。

松郷屋焼は新潟の近代化遺産
幕末から明治にかけての松郷屋焼の代表的な製品は北海道向けの焼酎容器です。最盛期には年間20万個以上を生産したといわれていますが、明治30年代には廃れてしまいました。北海道でも焼酎が作られるようになったこと、ガラス瓶が普及していったことなどが要因として考えられます。その後は瓦、煉瓦、硫酸甕などを焼いていましたが昭和の初めには衰退しました。
幕末からの新潟湊は蝦夷地交易で栄え、明治に入ると新潟県は油田開発から化学工業が発展しました。それらを支えた松郷屋焼の歴史は、新潟の近代化史、産業発展史と密接につながっています。

避難と復興のきざし

大堀地区は東京電力福島第一原発から約10キロの場所にあります。地震により各窯元の窯などが壊れ、そして原発事故で避難を余儀なくされています。相馬焼の特徴である「青ひび」は町内でのみ産出される石を使って作られる釉薬によってできます。原発事故は、原料の土も、生産拠点も、生活もすべてを奪いました。伝統が途絶える危機でした。 大堀相馬焼協同組合は、2012年の夏、事業再開を目指して二本松市に「陶芸の杜おおぼり二本松工房」を開きました。ここには、各窯元が共同で使える窯場や作業場、売店、陶芸教室などが置かれています。 放射性物質の拡散により確保できなくなった地元産原料の石も、福島県ハイテクプラザが似た性質の複数の石を調合して代替材料を開発しました。 伝統技術の復興に、一筋の灯りが見えてきました。


「陶芸の杜おおぼり二本松工房」
絵付けの様子
大堀相馬焼共同組合のホームページ