新潟ハイカラ文庫

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新潟市中心市街地の下に眠る 江戸時代の遺跡

歴史文化は「ローカルコモンズ」=地域の共有資源
今更くどいようですが新潟ハイカラ文庫は地域の歴史や文化が大好きです。そして地域の歴史や文化は、過ぎ去ったものでもなく、研究者だけのものでもないと感じています。地域の歴史と文化は「ローカルコモンズ」=地域の共有資源 であると私たちは考えています。そしてその資源の活用と、それによって生み出される効果にも興味を持ち、力があると考えています。
歴史文化資源の活用には様々な段階や方法、考え方があります。例えば古い建物をリノベーションしてレストランとして活用し、即効的な経済効果を得ることも一段階です。具体的に“使い”そこから“効果”がもたらされます。
時間的、空間的にもう少し広がりを持って考えてみることもできます。「いま」には必ず出発点があります。さかのぼることもできますし、未来の「いま」の出発点はこれからです。出発点、源流、ルーツといったものを考えてみることで「いま」忘れてしまったり失ってしまった断面が見えてきます。新潟は古く積み重ねてきた歴史があるにもかかわらず、地域のアイデンティティ(環境時間の変化にかかわらず連続するものであること。そもそもの主体性。新潟らしさ。新潟ならでは。普遍的な“個性”)が希薄です。歴史文化資源は、そういった「新潟の自分探し」の手掛かりとして活用できるのではないでしょうか。
歴史文化資源を「新潟の自分探し」(書いていて情けないような恥ずかしいような・・・)の手掛かりとして活用することで、地域のアイデンティティが醸成され、それが未来の明確なビジョンという形で効果がもたらされます。歴史文化資源は、昔のモノ、過ぎたこと、ではなく、未来を作り出す資源なのです。

湊町として栄えた新潟町の遺跡が眠っている
前置きが長くなってしまいました。今回は「皆さんが暮らしている下には、昔の暮らしが眠っている」という話題を考えてみます。具体的にいうと「中心市街地を2メートル程掘ると江戸時代の新潟町跡がある」ということです。
新潟市の中心市街地は、それぞれの時代で常に開発行為が繰り返されてきました。近年は大掛かりな土木工事を伴うものが多くあります。更に災害も幾度となくありました。しかし、最近の土木工事に伴う発掘調査で、江戸時代の新潟町の遺構が比較的良好な状況で残っていることがわかりました。
街が開発によって姿を変えてきたという一面は、地域の個性を希薄にしてきた大きな理由だと考えられます。街が時代とともに暮らしやすい姿に変わっていくのはあたりまえのことですが、変わってほしくないものもあります。皆さんの下に眠っている江戸時代の暮らしは私たちに何を伝えてくれるでしょうか。


越佐に伝世する肥前系陶磁器

日本海の活発な交易でもたらされた
さて、新潟ハイカラ文庫では、早くから越佐に伝世する肥前系陶磁器に注目してきました。過去には上越市にて初期伊万里の企画展も行いました。肥前磁器は伊万里港から船で広く全国に運ばれ、そのため港の名をとって伊万里焼と呼ばれました。そして創始期の特徴をもった品物を他と区別し初期伊万里と呼びます。
日本海側の海運は秀吉が朝鮮出兵のために肥前・名護屋城に全国の諸大名を集結させたため兵糧米輸送で海路が開け、江戸時代に入っても天領米や大名の余剰米を江戸・大阪に運ぶ必要性から整備されています。 従来、北国米は敦賀・小浜から琵琶湖を経て京阪に運ばれたのが、1600年代の半ば頃、寛永から正保の時代にかけて海路、下関廻り瀬戸内を経て大阪に運ぶ方法が始まります。
肥前陶器(唐津焼)が誕生後間もない慶長(1596ー1615)頃に北海道にまで多量に流通し始めるのは、秀吉時代に進んだ米や木材など遠距離輸送の活性化に乗ったためです。1610年代に生産が始まる肥前磁器も陶器で実績を上げた日本海ルートに乗って日本海側に早くから流通しました。
また佐渡金山が最も栄えたのは17世紀前半であったため、佐渡では明末の中国磁器とともに唐津焼、初期伊万里が多くみられます。最初期に作られた特徴を持つ初期伊万里が、佐渡、出羽などで出土しており、太平洋側東日本より、流通が活発であったことを裏付けています。


最近行われた発掘調査

近世新潟町跡 広小路堀地点
平成18(2006)年7月、柳都大橋につながる広小路で、発掘調査の現地説明会が行われました。この発掘調査では屋敷の遺構などとあわせ、17世紀から19世紀の肥前系陶磁器、木製品などの遺物も出土しました。この説明会は2日間行われましたが、合わせて600名の市民の見学者があったそうです。注目されていましたね。

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新潟国道事務所のホームページ

発掘場所はここです。東堀前通九番町と広小路の交差点、上大川前通十番町と広小路の交差点の付近の2カ所です。
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Google Map
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まず、この発掘調査では掘削深度が2メートルとされました。試掘結果による遺物包含層の推測と矢板の設計上によるものです。遺物包含層はすべて盛土だったため自然堆積土がどれくらいの深さにあるかも問題になりました。2メートルより深い部分については掘削ではなくジオスライサーを打ち込むことで調べられました。深い掘削を行うためにはトレンチを広くとらなくてはなりませんし、この場所では湧水の危険もあります。そして周囲は構造物が迫っています。市街地での調査の難しさが理解できます。
この場所は明暦の移転後の新潟町、寄居島内です。トレンチの掘削、ジオスライサーにより、およそ2メートルより深い場所は自然堆積土、その上に盛土が繰り返されていることがわかりました。遺物はその盛土の各層から出ました。17世紀から19世紀までの肥前系陶磁器、土人形、硯、碁石、箸、碗などが出ていますが、近接トレンチでも層序と出土陶磁器の時期が一致せず、盛土時の撹乱や地震の影響が考えられます。遺構は溝や土杭、礎石などが発見され、特に溝の一部は屋敷堺にあたるものもありました。

発掘調査からわかること
自然堆積土の年代と、人工的に盛土が繰り返された年代の違いによって、現在の市街地が明暦の移転によって、計画的に作られた町であるということがわかります。そして遺物からは新潟湊の交易範囲の広さ、新潟町の繁栄。新潟は広範囲の影響をうけて成立しているということ。などが導きだされます。


発掘場所の所有者変遷


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現在はコインパーキングと広小路の歩道

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広小路を挟んだ上大川前通九番町も小川屋、間瀬屋、当銀屋など有力問屋が軒を連ねていた

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少し離れた2カ所の地点ですが、上大川前通十番町の地点に注目します。なぜかというと・・・新潟ハイカラ文庫は肥前系陶磁器も好きですが、新潟の商人史も得意分野なので・・・そう。この場所の住人が新潟の歴史に結構足跡を残しているからなのです。

有力問屋若狭屋大塩家 抜荷事件後は安宅家
明暦の移転後から幕末まで、ここは新潟を代表する廻船問屋「若狭屋」でした。若狭屋は屋号で苗字は大塩です。先祖の若狭屋常安は上杉謙信に仕え、軍用物資の輸送にあたっていたといわれています。上杉・新発田抗争で天正14(1586)年に上杉景勝が新潟に拠点をもつことができた際にも、景勝方に味方し勝因を作りました。船持ちの戦争商人ということです。その後上杉景勝はたくさんの物資を上方へ送ることになりますが、その際にもこういった商人が活躍したことでしょう。新潟の有力商人であった若狭屋は寛政年間(1789〜1801)には大塩市兵衛が検断格長老になります。天保年間の新潟町の絵図にも大塩の名前が見えます。他にも松浦、江口、北国といった有力廻船問屋が上大川前通に記載されています。この頃は周囲の倍以上ある八間を超える間口の広さをもつ大きな店で、しかも堀に面した角地です。

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天保期の新潟町の絵図
当地には「大塩」と書かれている。他にも上大川前通には「北国」「大月」「江口」「松浦」と言った名前が。

若狭屋は天保6(1835)年の第一回唐物抜荷事件に関わった罪で家財が没収され江戸払いとなっています。その後は安宅屋仁右衛門の外屋敷となり、明治30(1897)年まで安宅家が所有します。
安宅家も新潟町の有力商人で、明治始めからの新潟の近代化に大きく関わりを持ちます。安宅善平は市議を務め、また新潟商業銀行創立時の取締役です。また明治16(1883)年に生まれた洋画家安宅安五郎は安宅善平の四男です。(安宅安五郎の妻福美は日本画家尾竹越堂の二女、長女の美穂は森鴎外の三男へ嫁ぐ)

調査報告書は錯誤 一軒隣を記している
新潟県教育委員会による今回の発掘調査報告書では、当地の近代の所有者について明治29(1896)年まで廻船問屋藤田の店ということになっていますが、藤田の店は一軒隣(今の新潟絵屋)です。これは明治29年に発行された商業家明細全図に惑わされた錯誤だと考えられます。この地図はお店の名前がたくさん掲載された楽しい地図ですが、すべての店や個人宅が記載されてはいませんし、各戸の大きさや間口を反映していません。

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また、上大川前通の特性として「通り西側と東側の所有者と間口が同じ場合が多い」ということが挙げられますが、この場所もその特性が当てはまります。通りの西側だけでなく東側(今のサークルK)の部分に関しても広小路側から順に安宅氏、藤田氏の所有となっています。この特性は西側に店、東側には蔵という状況が多くあったからです。

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新潟商業銀行 新潟県史通史編近代二より

明治30年にはこの場所は新潟商業銀行の本店となります。当時の写真が新潟県史にありました。調査報告書によるとこの建物の裏側隣接地に明治20年頃に長屋が建てられたということになっています。どこまでが銀行の家屋で、どこからが長屋かは、この写真を見る限りではよくわかりません。新潟商業銀行本店は大正8(1919)年に上大川前通八番町へ移転しますが、その後も同行広小路支店として使われました。大正10(1921)年には同行が貯蓄部門を分離させ発足した新潟興業貯蓄銀行の本店となり、戦前の銀行統合により第四銀行の広小路支店となります。写真の家屋がそのまま使われたのか、いつ頃立て替えられたのかは調査中です。


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昭和28(1953)年に米軍が撮影した写真。長屋はあるみたいだが、角地の建物の形状ははっきりわからない。

発掘された肥前系陶磁器

大店を彷彿させる品物

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発掘調査報告書 図版30 を転載

遺物の詳細にも目を向けてみます。遺物は木製品や石製品など多くが出土していますが、今回はこの場所で出土した土器、陶磁器に注目します。図版は調査報告書からの転載です。目立つ菱形の大皿は19世紀代のもので径30センチを超える物でこのような大皿は一般集落では出土しないものです。これは比較的浅い層からの出土です。
遺物包含層の最下層からは1680年代の肥前系の碗、17世紀後半の肥前波佐見三股窯産の青磁製品が出ています。これらは明暦の移転後の品物で層順とほぼ一致する品物です。また産地は不明ですが17世紀初頭の黒天目碗もあります。これは移転前からの伝世品で茶の湯の習慣があったことを示しています。若狭屋大塩家の栄華を物語る品物ばかりです。


時間や空間の重層性を感じて

発掘品は公開されています
これら遺物の一部は平成21(2009)年の1月からみなとぴあで公開されています。更に平成25(2013)年の1月にも展示替えが行われました。遺跡自体は既に歩道とコインパーキングになってしまっていますが、いにしえの品物は皆さんが気軽に見ることができるようになっています。
新潟町が移転によってできた都市だということ、当時の広域的な交易、新潟町の繁栄などなどを感じることができる品物をご覧になってみてはどうでしょうか。

じっくり郷土の歴史を考えてみませんか
新潟が持つ時間的、空間的な重層性は今に未来につながっています。新潟は未来に向けて「まちづくり」という軽々しく幼稚な言葉で右往左往しています。一人一人が持論をもてば「まちづくりの専門家」「まちづくり大統領」です。そして「地域の魅力作り」という創作と開発が繰り返されています。「魅力のある地域」には雰囲気、風、空気感があります。人はそれが好きで心地よいからそこに住む、集うのだと思います。地域の風は積み重ねられた時間から吹いてくると考えています。



参考文献
新潟県埋蔵文化財調査報告書 第187集 . 一般国道7号万代橋下流橋関係発掘調査報告書(新潟県教育委員会 : 新潟県埋蔵文化財調査事業団)
新潟市史