新潟ハイカラ文庫

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北越商工便覧(明治23年7月印刷)より

鈴木長蔵と新潟の文明開化

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幕末から明治へと大きく変貌を遂げる新潟町で・・・
今回取り上げる鈴木長蔵は、商人として新潟町の近代化を牽引した第一人者。少しづつ知られるようになりましたがまだまだ掘り下げる必要がある魅力的な人物です。第四銀行や新潟日報といった皆さんがよく知っている地元企業のルーツも鈴木長蔵にあり。足跡をさがしてみると、若い頃から広く見識を持ち、急速に変化する時代に「公益」の立場で邁進した姿が見えてきます。

鈴木長蔵の人物像(越佐大観より抜粋し一部を訂正)
近代の人物史を探る際に先ず参考にする「越佐大観」(大正5年)ではどのように記されているでしょうか・・・
新潟町の人。弘化3(1846)年3月生まれ。代々小川屋という廻船問屋を営む旧家。長蔵は幼児、山村新平、三浦東作に学んだ。博覧強記で新潟の生き歴史といわれた。明治2(1869)年3月開港用掛となり、ついで年寄格に推され検断となり施薬院用掛を兼ねた。
明治5(1872)年父を亡くして家を継ぎ、7月戸長となった。市中3人の戸長のうち楠本正隆県令の信頼が最も厚かった。27歳のときである。この年、荒川太二、堀新吉と問屋会所を解散して五十両を得て日本国郵便蒸汽船会社に投資し汽船成明丸を借受け東京・新潟間の航海を始めた。明治7(1874)年新潟長岡間航路を桜井勘蔵、齋藤喜十郎等と横浜より汽船を購入し魁丸と号してはじめた。県令の命をもって民費の剰余15000円を原資とし貸金会社を興し北海道へ渡った。その後、本間新作と銀行を設立した。後の新潟銀行である。
明治7(1874)年5月荒川太二とともに白山公園で第二回博覧会を開き、明治8(1875)年本間新作と上大川前通七番町に隆文社活版所をはじめ、ついで新潟新聞の経営にあたり東北日報社も経営した。この年米商会所を設立して後の新潟米穀株式取引所に発展した。ついで、明治12(1879)年新潟物産株式会社の設立にあたり支配人となりウラジオストクと貿易にあたった。
明治12年県会議員となり副議長、明治22(1889)年市会議員に当選、議長となった。明治24(1891)年新潟市長となり8年間在職した。明治29(1896)年11月新潟商業会議所会員に当選、ついで会頭に推された。明治29年北越鉄道会社の創立に努力し、明治30(1897)年新潟県治水会を興し会長となり、信濃川治水に尽力した。明治31(1898)年農工商高等会議議員。また、新潟県農工銀行頭取として活躍し、明治34(1901)年内国勧業博覧会評議員、岩越鉄道期成同盟会幹事、電話交換局の設立のため働き、県農会名誉会員となった。明治35(1902)年8月10日衆議院議員に当選し、明治36(1903)年3月の選挙にも当選し、明治42(1909)年5月64歳で没した。

この頃の新潟は・・・鈴木長蔵が活躍した時代背景
北越戊辰戦争、新政府は新潟に直轄府県を置きました。全国統治と諸外国から主権を認められることを目指していた新政府にとって開港地新潟は重要です。とはいえ混乱の世情のなか直轄府県と中央政府との間には情報や意見の隔たりがあり統治は不安定でした。これは地域名称や知事等が頻繁に変わったことからも実感できます。その後、中央集権的な国家としての構想が徐々にまとまり実現化されていき、文明開化政策も進められました。
西南戦争が終結すると政局は安定してきます。国民の間には自由民権運動が盛んに起こり自由党と改進党の二大政党が結成されます。新潟県内でもこれらの動きは顕著にあり新聞などの言論分野が発達し、県会も開設されました。その過程では過激な事件もありました。
新潟市では経済の要である港の水深不足の問題が解決できず経済界の足枷となっていました。開港後の外国船の寄港も少なく領事館も次々と閉鎖されました。とはいっても経済の中核は米であり、新潟は北海道や都市部への廻米で海運舟運業や倉庫業を中心に活況を呈していました。通貨制度の確立や地租改正といった経済改革は進みましたが、松方デフレにより農村は疲弊し地主への土地集積が進みました。
新潟港の問題は市内財界から国会や県会への働きかけが熱心に行われていましたが、国政のなかでは地方の小さな出来事であり実現への歩みは遅かったようです。そうこうしているうちに鉄道の時代がやってきます・・・。


生家は廻船問屋 小川屋(上大川前通9)

上大川前通9には同姓、同屋号の有力者が多い
鈴木長蔵は弘化3(1846)年、新潟市上大川前通六ノ町(現在の上大川前通9番町)の生まれ。家は代々小川屋という廻船問屋です。安政2(1855)年の東講商人鑑にみえる「大上:小川長右衛門」というのがそれにあたります。少し時代が下がり、皆さんおなじみの「北越商工便覧」明治22(1889)年には鈴木長蔵の店として掲載されています。また、明治29(1896)年の商業家明細全図にも記載があります。ここは現在の明元堂眼科さんがあるビルです。
azumakou 鈴木長蔵と並んで、明治期の新潟で活躍した有力商人として鈴木長八がいます。こちらも同じく上大川前通9番町に家があり鈴木屋(大鈴木)という廻船問屋でした。さらに隣りには鈴木佐平(間瀬屋・やまさ)という廻船問屋もありました。これら3家の鈴木家には親戚関係はありません。また、別な小川屋という屋号の家も近所にあり多くの方が混同するもとになっています。
・小川屋(大上)長右衛門→鈴木長蔵
・鈴木屋(大鈴木)長八→鈴木長八→鈴木久蔵
・間瀬屋(やまさ)佐右衛門→鈴木佐平
・小川屋(小川)善五郎 もともと廻船主


明治維新期の職

・開港用掛 ・施薬院用掛 ・検断 ・フランス人宣教師の世話をする ・戸長
施薬院は正福院に開設され施薬と種痘を行いました。新潟は人も物も集まる街で貧困層も多く、伝染病の心配もありました。社会にとって労働力(人口)は大切です。貧しいものからは料金をとらず西洋の薬品を施薬し、動けないものには往診をしました。しかし数ヶ月で閉院してしまいます。開港用掛の仕事内容の詳細はよくわかりません。新潟商人は混乱の維新期、開港業務や開化政策には腰が重かったといえます。他の町方役職は老獪な実力者らがなっており、未知の分野を若い長蔵に押し付けたようにも感じます。また当時の他の官命の一つ、為替会社の取扱いには財力がある問屋系の者が就いておりこれには長蔵は入っていません。商家としての小川屋のポジションは中堅クラスと推測します。
どうも新潟の商人は「時代が変わる」ということがよくわかっていなかったようです。自分から考えようとしなかったのではないでしょうか。未来から振り返れば「なんだそんなこと」と思うようなことでも、当時は右往左往していたかもしれません。この後の長蔵の功績から考えると、この頃長蔵は「今迄の新潟商人ではこれから暮らせない」と悟ったのではないでしょうか。それは「自分自身の商売を変える」のではなく「社会を変える」という気概で。そこには開化政策の名県令といわれた楠本県令の影響が大きく作用しています。


第四銀行創業

第四銀行の創業者に長蔵の名は出てこないが、一番の尽力者であることは間違いない。
明治5(1872)年頃、県内から徴収した課賦金の使い残しを蓄積すると15000円ほどになりました。楠本県令はこれを元手に貸金会社を創業し、北海道の事業に投資させようと考えます。数年前に失敗した為替会社の後継会社が必要とも考えていました。長蔵はその命をうけ北海道視察へ。しかし当地は樺太開拓使の分離と統合など情勢は混沌。北海道投資は見合わせることになりました。
一方、情勢には別な動きもありました。北海道投資は不発に終わるも新潟にとっての金融業の必要性を感じていた長蔵は、政府が定めた銀行条例を楠本県令とともに研究しました。そして地主層など県内の有力者を集め200000円の資本金で第四銀行を創業します(発起人にはなっていない)。明治6(1873)年5月に設立認可を得て、翌年3月に新潟本店と東京支店を同時に開設しました。長蔵は設立認可、創立総会、開業と奔走。東京にも長く滞在し、簿記を学んだり支店開設の準備にあたりました。


新聞社の創業

新潟日報の源流と福沢人脈
明治8(1875)年に本間新作、大倉市十郎らとともに上大川前通7番町(当初は本町通9番町)に隆文社という活版所を創業しました。当初は学校用の読本などを印刷していましたがその後縣知報知も印刷しました。新潟では明治6(1873)年に坪井良作が北湊新聞を興したがほどなく廃刊(その後新潟隔日新聞へ)となっていました。長蔵らは隆文社を発展させ明治10(1877)年に新潟新聞を興します。創刊は明治10年4月7日。翌月には社名が新潟新聞社になり社主鈴木長蔵となります。洋紙による活版印刷のごく初期の頃で紙は関東から運んでいました。季節によっては海運も陸送も難しかった頃で、創刊前から長蔵は数ヶ月分の新聞用紙を在庫していたといわれています。
主筆には斎木貴彦、藤田久二(ともに慶應義塾出身)を招き、その後も慶應義塾から次々と論客が配され社説を展開し県会開設について大きく運動しました。明治12(1879)年には尾崎行雄が総理の肩書で入社し、およそ1年半在職します。この間、明治12(1879)年10月には初の県会が開催されました。福沢諭吉に人の派遣を依頼したのは長蔵であり、政治や国家の思想だけでなく商事思想の普及にも力を入れたといわれています。そして福沢から県会を指導するように託された尾崎はその書記に委嘱されました。新潟新聞には「都市知識人」の影響が多く、新潟の自由民権運動に大きな影響を与えました。


新潟新聞の混乱と変遷

政治運動の価値観も多様化
その後次々と主筆が変わった新潟新聞は徐々に立憲改進党の機関紙のようになっていきました。明治19(1886)年には市島謙吉が主筆になり(大隈重信や尾崎行雄、高田早苗らの後押し)地元実業界の創業者たちにも意見が割れることが多くなります。社長であった長蔵は「営業優先で政府寄りの姿勢」と称され何かと対立。長蔵は明治20(1887)年に持株をすべて放出して退社(追われた)、その後富樫苗明や伏見半七らと『有明新聞』を創刊しました。同紙は翌年に『東北日報』と改題され、自由党系の新聞となっていきます。
しかし、長蔵は北越興商会の設立経緯や県会での卓逸した手腕などから推測すると「職業政治家」や「無産過激」「特権ほしさの経済人政治家」とは少し線を引いています。新聞の経営争いを改進党寄り、自由党寄りで片付けてしまうのは短絡的といえます。この頃の長蔵は地域の発展や公益と政治色の間で苦労していたと考えられます。皆が真剣に議論するなかで、長蔵のリーダーとしての独立性が揺らいでいた時期です。


ウラジオストク貿易の事情

新潟物産会社と三菱
明治12(1879)年、長蔵は鍵富三作、荒川太二、藤田文二、西脇悌二郎(東京支店担当)らと新潟物産会社を興しました。新潟における商工業振興と貿易推進のための会社です。外国商人が貿易を支配するのではなく日本人商人が積極的に輸出に携わるべきという福沢諭吉の「直輸出論」の影響を受けています。明治9(1876)年頃から三菱会社の沿岸航路が新潟にも寄港するようになり、明治12年には支店も開設されました。三菱は新潟に強固な足掛りを作るため新潟物産会社と積荷取扱いの契約、荷為替による金融を積極的に行いました。これにより三菱の新潟における勢力は非常に強くなりました。

福沢諭吉の思慮
ところで当時ロシアと清の間が険悪になりました。戦争になった際、極東への物資供給地として日本に協力してもらいたいという打診がロシアから時の政府にありました。ロシアへの援助を約束するも、国際関係上表面からロシアを日本が支援するということは清との関係に支障をきたしてしまうと悩んだ井上外務卿は福沢諭吉に相談。民間会社が貿易をしたということなら国家間のことではないだろうということで水面下で新潟物産会社に話がまわってきました。西脇悌二郎と福沢諭吉は関係があり、さらに将来のロシア貿易拡大の意図もありました。新潟からウラジオストクへ米や麦、味噌などを積んで航海しましたが、到着した頃にはロシアと清の関係は改善。さらにロシアが欲していたのは馬の糧であり商売が成立しなかったそうです。倉庫を借りて陸揚げしましたが、災難は続くもので、倉庫が火災に遭い大きな損害が出ました。
このように新潟物産会社の経営は順風満帆とはいえませんでした。当初三菱は新潟での利益の多くを新潟物産会社へ割り戻していましたが不景気になるとその割合は減ってきました。その頃になると三井物産会社系の東京風帆船会社や共同運輸会社が新潟港に進出しており、鍵富三作は共同運輸会社の経営に参画しています。


初めての県会

楠本県令時代にも県会は開かれた。(公選県会の下地)
「開明的」な楠本県令は円滑な行政のために地域の会議や全県レベルの県会を開いていました。これは全県下の区長や戸長層を集めた会議で公選議会とは違うものです。

県会開設前に東京へ、会議の実地見学、法律や議事規則を学ぶ。
初県会では議長適任と一目置かれながらも、反発から議長は松村文次郎になった。

  明治12(1879)年に初めての県会が開かれ、長蔵は新潟町から横山太平、吉川更平とともに議員となりました。議長の人選にあたっては県庁が水面下でスムースにいくよう根回しをしていたが勢力争いが激しくうまくいきませんでした。議員を招集しても開会できない有様で、混乱する中で柏崎町の松村文次郎が議長、長蔵が副議長になることで落ち着きます。しかし、松村は議事経験もなく規則も知らなかったため長蔵がリードしたといわれています。始まって三週間で松村氏は「短才無学のため」と言い辞職の意思を表したが慰留されました。これは松村氏が降りて、長蔵が上がることに納得いかない勢力が慰留したものだったといわれています。
県会の選挙権は満20歳以上の男子で地租5円以上納付者(人口の約3%)。被選挙権は満25歳以上の男子で地租10円以上の納付者(同2%)。議案提出権は県令にあり、県令は議決を拒否し再議させる権限もありました。さらに内務卿に県会の中止や解散をさせる権限がありました。議員は立候補制ではなく無給でした。


北越興商会の設立

新潟商人が商業を学ぶ組織から全県の組織へ
もともとは新潟町の商人が集まった社交団体でした。その後「自由民権の立場から新潟商人の政治的覚醒を促し、商業の近代化を図る」という尾崎行雄の影響をうけました。明治14(1881)年5月に北越興商会として結成され長蔵が会長となります。全国的にみても先進的な自主的商業結社だったと評されていますが、内部では自由民権運動に関わる政治色の強い者、新潟町の者と他地域の者、など意見対立が多くありました。

政治色が強くなり分解、新潟商人の組織に戻る
脱会者も出て明治18(1885)年には新潟町在住者を中心とした新潟興商会になりました。これが新潟商業会議所のルーツになります。(新潟商業会議所は明治29(1896)年に設立された。商業会議所条例に基づく団体。行政の補助的機関の要素がある。長蔵は初代会頭に就任し、他にも北越興商会のメンバーが名を連ねているが組織としての継承ではない。)


北越興商会附属新潟商業学校、新潟女学校の設立

・新潟商業学校は明治16(1883)年に開校。商家の子弟の人材育成を目的としました。北越興商会堂のところにあり、現在の新潟商業高校の前身です。
・新潟女学校は明治20(1887)年に開校。プロテスタント系で女子中等教育のさきがけでした。営所跡地で開校し、その後南浜通に移転しました。


新潟市の誕生

市会議員、議長となり、その後市長へ
明治22(1889)年4月「市制」の施行によって新潟市が誕生。長蔵は市会議員に選ばれ議長に推されました。この選挙も納税者が強い選挙制度で議員には市の有力者が名を連ねました。
初代市長には元北蒲原郡長で大垣士族の小倉幸光が就き2年程在任したが辞任。二代市長には長蔵が就任しました(市会が選定)。長蔵は6年の任期を満了し再任、その後明治32(1899)年に辞任するまで8年間市長を務めました。この間、信濃川治水や鉄道開業誘致、電話交換局設置など政府との多くの交渉を進めています。

晩年は衆議院議員として活躍


「新潟の生き歴史」 〜 “商人は学べ”

鈴木長蔵は、幕末から明治へと大きく変貌を遂げる新潟町にあって、商人として新潟町の近代化を牽引した第一人者。少しづつ知られるようになりましたがまだまだ顕彰の必要がある魅力的な人物です。 港町新潟は商業の町であるとともに県庁所在地でした。鈴木長蔵は政治と経済が混在した町でその両方をうまく調整できる数少ない人材の一人で新潟一の経世家といわれました。商人が社会を作り、変革してきたのです。しかし、その道は穏やかではありませんでした。社会が成熟していく過程で色々な考え方が生まれてくる中を調整していくことは実力者といえども決して容易い事ではなかったことでしょう。その経世の基本は「商人は学べ」という教訓にあったといいます。幼い頃から儒学を学び、一度会った人や知った事を忘れない博覧強記の人でした。晩年には「新潟の生き歴史」とまで讃えられた鈴木長蔵。彼の姿から学ぶ事は多いと感じます。



参考文献
越佐大観(大正5年)
新潟市史(平成9年)