嶋谷汽船 鮮海丸

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新潟北鮮直行船 鍵富本店(鍵三)船舶部の奮闘

新潟港と対岸国際航路 明治〜昭和初頭
新潟港の対岸国際航路は、明治時代からウラジオストク航路がありました。 しかしこの航路も大正時代に廃止となり、対岸貿易は低迷していました。 そのような状況のなか、新潟港の発展を考えていた新潟市、商工会議所、海運業者らは新潟北鮮間の新潟県命令による定期航路開設の陳情を再三行っていました。
命令航路とは、命令者(行政側)から寄港地や運航回数、就航船能力などが指定され、受令者(船会社)に対して補助金が交付される制度です。 新潟県は、財源難の折、新潟港からの輸出品がないことを理由に、この陳情を伸ばし伸ばしにしていました。 昭和3年には神戸の嶋谷汽船株式会社が補助金半減での就航引受けを申し出ましたが、それでも成立しませんでした。

鍵三の就航 〜既存会社への刺激
昭和4年5月、新潟市の鍵富本店(鍵三)船舶部が独自に北鮮航路を開設します。
以前から鍵三では年数回北鮮への不定期航海をしていましたが、昭和4年に入り、大阪から新たに神栄丸という船を購入し毎月1回定期航路を開設することとして県と市へ補助金の申請をしました。 新潟=元山=清津=新潟の航路で5月15日から開始されました。欠損覚悟の補助金決定前の航海開始でした。このことは“競願者であった嶋谷汽船にかなりの影響をあたえた”と当時の資料はいっています。
ほぼ同時期に嶋谷汽船では、従来から朝鮮総督府の命令航路として運航していた朝鮮北海道航路を新潟にも寄港させることを発表(仁川=大連=鎮南浦=釜山=舞鶴=敦賀=伏木=新潟=函館=小樽=大泊)。 北鮮航路ではありませんでしたが、新潟にとっては朝鮮や樺太への便利な航路ができたことになります。
鍵三の就航は予想以上に既存船会社には刺激だったようで、清津の船主同盟(大阪商船・嶋谷汽船・川崎汽船・北陸汽船・西脇汽船部・朝鮮郵船)は鍵三の同盟参加を認めず、神栄丸は清津からの積荷が出来なくなりました。これに関しては新潟県が清津商工会議所へ参加承認の斡旋を依頼する顛末にまで発展します。また、鍵三の神栄丸は、この年の秋、月1回の北鮮航路の合間に台湾への航路にも活躍しました。

こちらの新聞記事は、翌昭和5年2月に嶋谷汽船の専務が新潟を訪問した際のコメントです。鍵三の問題にも少し触れています。(新潟新聞 昭和5年2月4日)
この2月の訪問は嶋谷汽船の小樽=函館=新潟=元山=敦賀=新潟という航路開設によるものでした。記事中には補助金は別問題だといったコメントもあります。 またこの年の5月には大阪商船が肥料輸送のための北鮮定期航路を就航させ、新潟北鮮間の航路は3社が関係するようになりました。

命令航路(新潟県・新潟市・朝鮮総督府による)いよいよ決定する
昭和6年1月、県の参事会で命令航路と補助金の件がやっと動きます。鍵三では地元の利と、欠損覚悟で運航し続けてきた神栄丸の功績で受令を期待していましたが、船舶の性能の面から嶋谷汽船が優秀であるとされ、嶋谷汽船に決まります。 そして2月、嶋谷汽船が新潟=元山=清津の航路を開設し笠戸丸が就航します。この航路は新潟県だけでなく、新潟市、朝鮮総督府からも命令航路の指定を受けましたが、多くても月に2回程度の運航で状況は芳しくなかったようです。この頃、日本海側の重要港は名実ともに敦賀でした。 簡単な位置関係を当時の絵葉書でご覧ください。


上越線全通と満州国建国 〜政府命令航路の誘致
昭和6年9月に上越線が全通すると新潟と東京は一気に近くなりました。
また時局は満州事変から昭和7年3月の満州国建国へと進み、日本の首都“東京”と満州国の首都“新京”を結ぶ交通が注目されるようになります。
対岸の大きな港としては大連が有名でしたが、大連経由は新潟=北鮮ルートよりも距離的に遠いことから「新潟優位」を強調し新潟北鮮航路の政府命令航路請願運動が本格化します。 「日満連絡」の最短ルートとして、東京=新潟=北鮮=満州をアピール。そのなかでの「新潟北鮮直行航路」ということです。
昭和7年5月には新潟新聞が3日連載で「満州国の建設と要位に立つ新潟港」というキャンペーン記事を掲載し、・交通網・港湾施設・貿易・工業・国防・観光という観点から新潟の長所を説いています。
昭和7年12月には大連汽船が新潟への足掛りとして、大連=新潟=伏木=敦賀=大連という航路を開設。河北丸を就航させました。(新潟の代理店は小林力三商店) 嶋谷汽船は従来からの運航で政府命令航路の受令も有力かと思われていましたが、この大連汽船の新潟進出の他にも大阪商船、北陸汽船、朝鮮郵船などが新潟港に航路を持ち、さらに参入希望会社もあり、政府の動きも目が離せませんでした。

こちらは朝鮮郵船の新京丸の新潟北鮮線のスタンプです。日満航路に関するコレクションは、日本側船会社のカラフルな絵葉書やパンフレットが多くありますが、こちらは珍しい朝鮮郵船のものです。(新潟北鮮線は嶋谷汽船が有名で他の船会社の資料は少ない)新京丸は新造されたばかりの船です。

日満連絡・新潟北鮮直行船 嶋谷汽船株式会社 鮮海丸の時代

昭和8年5月3日 嶋谷汽船の鮮海丸が新潟=清津に就航
政府命令航路の指定を待たず、嶋谷汽船はこの日、新潟=雄基=清津の航路を開設し鮮海丸を就航させます。鮮海丸は大正15年5月三井玉造船所に嶋谷汽船が発注し同年末(大正天皇崩御で改元となった4日後)の昭和元年12月29日に完成し引き渡しを受けました。珍しい昭和元年の稀少登録船です。新潟北鮮航路で活躍したのち戦局の変化から海軍に徴用され、昭和17年10月にラバウル北北東140km付近で米潜水艦の雷撃により沈没しました。

  

開設当時の航路を示した地図(昭和8年5月1日現在)

新潟の「政府命令航路」指定運動

盛り上がる政府への運動
昭和8年3月には新潟港を第一種国営へ編入してもらう請願と重要港湾指定建議案。同7月には命令航路期成同盟会の結成など運動が更に活発化。 鮮海丸の乗船客数が好調なことや、対満州貿易が急激に増加したことなど統計的資料も出ます。ちなみにこの頃、満州からの輸入品は大豆、小豆、原油など。輸出品は梨、カーバイドなどとなっています。
当時の運動を新潟毎日新聞は“新潟県人がもっているところの押しと底力”、“ほとんどすべての有力者が自家に火のついたように真剣になって、自分自身の問題として、その熱心のあらん限りを傾倒して運動に邁進”と記しました。

満州に至る連帯運輸「船車連絡」のはじまり

昭和9年8月より嶋谷汽船に許可されるが、満鉄の足並みが揃わず南陽まで

昭和9年の嶋谷汽船のパンフレット
鉄道省=嶋谷汽船=朝鮮鉄道=満鉄の連帯運輸が始まるが、満鉄との交渉だけがうまく進まず連絡ルートは当面満州の端っこにあたる南陽までが船車連絡区間とされた。満鉄との交渉が進まない理由は明らかにされていない。

昭和10年の嶋谷汽船のパンフレット

受令会社の決定と日本海汽船株式会社の設立

大阪商船関連企業が突如名前をあげる
政府命令航路の指定にあたっては、様々な立場に様々な運動があり混沌としていました。新潟県は既存の嶋谷汽船に補助金を出していましたし、逓信省も嶋谷寄りでした。大蔵省と満鉄は大連汽船寄り、朝鮮総督府はもちろん朝鮮郵船が指定されて就航できることを望んでいました。
昭和10年4月、政府の決定は驚くものでした「嶋谷汽船と北日本汽船に50万づつ出資させ、日本海汽船という新しい会社を設立させ、その会社を命令航路に指定する」というものでした。 この会社の命令航路は、新潟=清津・羅津・雄基とされました。
ここで初めて名前があがった“北日本汽船”は大阪商船の傍系会社で敦賀を基幹港に対岸航路に就航していた会社です。
これにより鮮海丸の他に、大阪商船から傭船された嘉義丸も就航するようになりました。


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