旧齋藤家別邸の築庭経緯

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旧齋藤家別邸 それ以前の当地と庭園

庭園はいつ頃誰が作ったか
新潟市中央区西大畑にある旧齋藤家別邸の庭園は、大正時代に東京の松本という庭師が作庭したと云われています。しかし、当地は齋藤家が取得する以前から庭園だったことが知られており、大正時代の松本庭師の仕事や、それ以前の庭園の姿について解明が期待されています。建築以前の当地を、新たな資料からご紹介したいと思います。
齋藤家の歴史については、こちらのページでご紹介しています。
大正時代に齋藤家が別邸を建築する前の当地については、別邸→医院→料亭→料亭と明治初期まで遡ることができます。 時系列を表にまとめてみました。

堀田楼 島清 嶋村医院 齋藤家別邸
元治元年時点 1864 開業していない 開業していない - -
- (開業時期不明) (開業時期不明)
明治10年12月時点 1877 開業している
-
明治26年8月14日 1893 西堀前通8・焼失
明治26年12月22日 廃業 -
明治26年12月31日 島清へ譲渡
明治27年3月5日 1894 - 西大畑通・開業
-
明治40年 1907 南浜通2で開業
-
明治45年 1912 営業している
大正元年12月 (廃業時期不明) 島清跡に移転開業
- -
(閉院時期不明)
大正7年 1918 - 建築登記
-
昭和初期 西堀通3で開業

現在調査中!明治初期の当地に新たな説があります。

堀田楼の時代

堀田楼真景(新潟市提供)

かなり大きな料亭と想像できる
堀田楼の開業時期は不明ですが、元治元年の「越後土産」には名前が出ていませんので当時はまだ開業していないと考えられます。 街中の料亭と違い、ご覧のような建物・離れ座敷・庭など大規模な店ですので、開業していれば必ず番付に入ったであろうと想像できるからです。

元治元年「越後土産」
続いて明治10年の「新潟美知の枝折 細見案内絵図」には「稲荷神社 俗に御林いなりといふ 料理屋二軒ありいきなり屋 堀田屋と云いつれも庭内美をつくせり」 と紹介されていますので、この時には開業していることになります。
  
明治10年「新潟美知の枝折 細見案内絵図」稲荷の隣の2軒が堀田楼と行形亭であろう

池や滝がある回遊式の庭園
堀田楼真景を細かく見ていきます。 まず注目したいのは、池や滝に見る庭園の配置です。 庭園の特徴である池と滝は、明治初期からあったようです。位置関係も現在と変わらないように見えます。 滝を廻る回遊路、橋から砂丘上部への連なりなども同様です。 現在の滝はポンプ式になっていますが、同列の砂丘には異人池があり、明治初期は湧水の可能性もあります。 この堀田楼の庭園を作った庭師については、後考を待たなくてはなりませんが、おそらく地元の庭師ではないかと思います。 同時期の他の庭園で、作庭者が判明しているものの多くが県内地元の庭師であることからの推測です。

印刷の北一舎とは
この刷物がいつ頃のものなのかを考えたいと思います。注目するのは発行元の「北一舎(ほくいちしゃ)酒井晶山」です。 北一舎は明治19年の創業で、現在の東中通2付近にあったと云われています。 新潟で最初に石版印刷を行い、美術印刷なども手掛けた技術力の高い印刷所として知られていました。 明治22年には銅版印刷をやめ、石版だけにしたそうですから、この刷物も明治20年前後のものと考えられます。 ただし、一つ気がかりなのは「新潟古二」の表記です。古二は現在の古町通5番町にあたります。東中通での開業以前に別な場所で創業していた可能性があります。

昭和9年4月5日 新潟新聞

北一舎の来歴〜その後の調査
上掲の新聞記事より、北一舎の創業を明治19年、よって堀田楼真景の年代も明治20年ごろと推定してきましたが、あらたな事実が判明しました。いつも当方へ有益な情報をもたらしてくださるA様が明治18年の新潟新聞に北一舎の広告を発見しました。

新潟新聞 明治18年3月8日
弊舎義是迄新潟區古町通二番町卅番地に於て銅板石
版亜鉛版右三種の版を以て銀行諸會社の株券切附手
形類諸製造品の商標印紙等に至る迄彫刻並に印刷致
候處今般同町十八番地に移轉仕候に付猶一増安価を
以て速に製造仕候間四方諸君多少不拘御用仰付被下
度奉希候以上                 
三月 新潟區古町通二番町拾八番地 北一舎 酒井晶山


北一舎は明治18年には「古町通二番町」にあり、その後東中通へ移転
こちらの新聞広告から、北一舎は間違いなく「古町通二番町」にあったことがわかります。また「新潟古二」は町名改正以前の言い回しではなく、新町名を略した言い回しであるようです。更に、明治24年1月15日の新潟新聞には「近火御禮 東仲通二番町 北一舎」の広告も発見され、古町から東中通への移転があったこともわかります。
北一舎の創業が明治19年より早かったことが判明したため、堀田楼真景の年代推定も、明治20年ごろではなくもっと早い(古い)可能性があります。


行形亭真景もある

一方こちらはお隣の「行形亭真景」です。こちらも北一舎の銅版で古二の表記になっています。 当時の賑やかな様子が見えますが、よく見ると庭園内に鶴がいます。
  
行形亭の鶴は有名で、飼育は明治16年10月からです。 この行形亭真景は、鶴飼育(明治16年10月)以降で、北一舎が東中通へ移転する(明治19年?遅くとも明治24年1月)前のものと推測できます。北一舎が銅板印刷を止めたのが明治22年とする説もありますから、年代推定は明治20年ごろの数年間で間違いないでしょう。

行形亭真景には複数のバージョンがある


新潟ハイカラ文庫所蔵の版から刷ったもの
絵は最初に紹介したものと同じだが、右上の文字の表記が違う
二文字ずつの改行が読みにくく廃版にされたものだろうか。出所は不明である。

さらに石版印刷のものも

こちらは石版印刷のものでアングルも異なる。新潟新聞の石版部の印刷となっている。
新潟新聞の石版部は前述の北一舎よりも遅い創業であり、印刷技術の違いとともに、前掲の真景よりも新しいものであることがわかります。前掲のものよりもスケールが広くなって、遠くに佐渡も見えます。左上、関屋浜あたりの方角には松島や象潟を想起させる小さな島も描かれています。当時はこんな小さな島(隆起)が海岸にあったのでしょうか。

明治12年の取上高調査

14155 宮島楼
7857 行形亭
3850 能登利
3807 島清
3800 鳥清
3650 鍋茶屋
2820 佐藤
2385 大島
1500 堀田
1225 寺勇
1165 北長
700 倉松
単位:圓
堀田楼は行形亭と並び称され繁栄を誇ったと云われていますが、明治12年のランキングでは低迷しています。 一位の宮島楼もその後衰退していますし、飲食店の人気や繁盛の波は現代も昔も変わらないようです。 堀田楼は明治26年に廃業し、その後を島清が2700円で購入します。この廃業は、譲渡がきっかけのものだと云われています。

様々な歴史の舞台に
堀田楼と行形亭は、当時の民権運動や政治運動の舞台として幾度となく利用されており、著名人の来歴も多くあります。規模が大きかったことや町から少し離れていたことなどが、主催者側からも取り締まる警察側からも好都合だったからでしょうか。
次に紹介する島清の時代になりますが、明治28年の8月には二つの料亭の裏手の垣を取り払い、二つの庭を続きにして300人の会合を設けた記録もあります。庭園内には数箇所の仮亭と種々の茶屋を設け、自由な会食ができたとのこと。日清戦争後の政治色の強い会でしたが、二つの庭園が一体となった会食会など、想像するだけでも羨ましい!


島清の時代

火事により移転した
島清も有名な料亭で、もともとは西堀通8にありました。 右の図は北越商工便覧(明治23年7月印刷)西堀時代の島清を描いたものです。
明治26年8月に大きな火事が市内中心部であり島清も焼失。その年の12月に堀田楼を購入。翌年3月に再オープンを果たします。 購入から開業までは真冬の3ヶ月です。建物も庭園も手を入れているとは考えにくく居抜き状態での移転と考えられます。
ちなみに慶応3年の会津藩新潟会議の会場は古六の鳥清(とりせい)。市の刊行物で古い物に島清と記述したものがあるが、鳥清が正しいようです。鳥清も古くから大きな料亭で前掲の越後土産にも名前が見えます。

島清館は滝を蒸気機関で揚水
この庭園の見所「滝」。構造については不明でしたが有力な情報が新聞広告にありました。いつも有益な情報をくださる当サークルの“博覧強記”の調査員Aさんの発見です。左は明治27年8月16日の新潟新聞の広告欄の拡大です。島清はこの前後の日に同様の広告を繰り返し打っています。
・・・弊館今般庭園内に於て蒸気機関作用の瀧を作り一たび滔々たる清水に望めば覚へず炎熱を忘れて快哉を叫ぶの□向に仕候間陸続御入来の程奉願上候也  八月十三日より はま島清館
蒸気動力は用水や排水などに利用され始めていましたがまだ珍しいものでした。小さな工場などにはまだ普及していない時代のことで、それを庭園に導入する気概に驚きです。明治27年の夏は島清が西大畑に開業してまだ数ヶ月のことです。明治初年代は砂丘の湧水だった滝が、晩年には水量が少なくなったのではないでしょうか。居抜きで開業した島清がそこへ数ヶ月の工事を経て揚水による滝を復活させたと推測するのはどうでしょう。
それにしても、滝は涼しげだったかもしれませんが、蒸気機関を運転維持していた人はさぞ暑かったことでしょうねぇ。

明治40年頃と推定される正面の写真

新潟小林活版所発行の明治40年代と推定される絵葉書です。堀田楼真景と見比べてみると、松や石の位置関係から門の場所は動いていないようです。しかし、そのように考えると建物は増築されているようですね。門から建物をくぐって庭園へ出られるつくりのようです。入ってまず視線をとらえる灯篭は堀田楼時代の池の横に描かれている灯篭に似ています。燕喜館にある清水六兵衛のものにも似ています。小澤家にも六兵衛の灯篭があり新潟には縁があり作品が多く残っています。さてこの灯篭は? 現在の旧齋藤家別邸には同型の灯篭はありません。門には扁額看板「島清館」がかかり、右には「即席御料理」左には「会席御料理」。即席といってもインスタントラーメンのことではないでしょう。お座敷だけでなく通常の食堂のような営業形態もしていますよ、ということでしょうか。奥の庭園にはアーク灯が見え、引き込み電柱も見えます。
島清の西大畑時代の資料は少ないですが、明治45年出版の「新潟」には 「西大畑町に市塵を避けた所で、行形亭の隣である、庭園の美なる事は贔屓の客から行形亭に劣らぬと称されて居る、庭石の配置や、樹木の手入等申分もなく、閑寂の裡に旅情を慰め得る設備は遺憾なく整ふて居る、鳥国の喧騒なるを避けんとする人は、此家に遊ぶも面白からう。」 とあります。しかし、この年の年末には廃業しており、さらに医院へと代わります。

嶋村医院の時代

わずか数年の医院時代
島清が明治の終わり頃に廃業し、その後、南浜通二番町にあった嶋村医院(嶋村信司)が移転します。
嶋村先生は元治元年に新潟市で生まれています。陸軍軍医学校を卒業の後、東京、広島、弘前などの軍隊付医官、日清戦争では近衛第一連隊付医官として中国や台湾へ、日露戦争では第二師団第二野戦病院長として北朝鮮鎮南浦へと従軍しています。帰国後は弘前予備病院第一分院長となり、二等軍医正、従五位勲四等功三級の叙勲をもらっています。明治40年に予備役となり、新潟へ戻り開業しました。赤十字社の教育主幹として看護婦養成に力を注いだり、市議会議員を務めるなど帰郷後の活躍も大変素晴らしい名士です。
齋藤家が別邸を建てる前は島清であったと考えられてきましたが、新潟公友という雑誌の広告から嶋村医院の存在がクローズアップされました。新潟公友というのは、地元政財界の様々な話題に触れている雑誌です。雑誌以外にも書籍の刊行もあり、前項で紹介した「新潟」という本も新潟公友のものです。

   
雑誌:新潟公友の広告 左:明治45年5月19日号 右:大正3年1月25日号

新潟公友誌では439号(大正元年12月1日)の広告までが「南浜通二番町」、441号(大正元年12月15日)の広告から「西大畑町(元嶋清旅館跡)」、454号(大正2年3月16日)の広告から「新潟嶋村医院」「庭園内ニ閑静ナル療養室アリ」、624号(大正5年6月25日)の広告まで掲載が確認できるがその後の号は残っていません。医院の移転開業は大正元年の12月ということになります。島清から嶋村医院への移り変わりも短い間のことです。この頃でも堀田楼建築から50年弱です。普請はしていても改築などがされたとは考えにくいです。離れなどを療養室として利用していたと想像されます。そして嶋村医院は昭和の初めには西堀通3にあることが確認できています。


齋藤家別邸の建築へ

齋藤家では大正5年から別邸建築資材の購入を始めています。大正5年7月頃からの新潟公友誌が保存されておらず嶋村医院の広告が確認できなくなっていますが、資材購入の時期から推定しても嶋村医院から齋藤家へ移ったのは大正5年頃なのでしょう。
齋藤家別邸の築造にあたっては、当時の齋藤家番頭が書類や手紙類を整理して纏めた綴りが残っていることが知られています。所有者の方は保存運動の折には公開を断られていたようですが、別邸の保存が決まると一転して新聞へ公表されました。(平成21年10月29日:新潟日報)
齋藤家が築造した経緯については、その綴りについて所有者の方の解読と次回の公表を待つことが正確な把握につながっていくと思いますが、明治時代の堀田楼の姿を見れば、当地は大正時代に一から庭園を作ったのではなく、以前からあった庭園を巧みにリニューアルしたものであると考えるのが適当です。
庭園に特徴を与えている砂丘は、信濃川がある新潟ならではのものです。すべてが作られたものではなく、自然を生かし、そこへ新たな魅力を造りこんだ明治の庭師、そしてそれを昇華させた大正の松本庭師・・・明治の堀田楼の姿を見ると、自然の豊かさや歴史の奥深さ、庭師の巧みさなど様々な思いが巡ります。そして旧齋藤家別邸の庭園の見事さに更なる感慨をおぼえます。

2011年秋の紅葉特別公開時の様子


参考資料
堀田楼真景(新潟市提供)以外の画像資料は新潟ハイカラ文庫所蔵
・新潟(明治45年)
・新潟県総攬(大正5年)
・新潟新聞(明治18年3月・同24年1月・大正15年9月〜10月・昭和9年4月〜5月)