旧齋藤家別邸と齋藤家・三国屋

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File.8  齋藤家が新潟に遺したもの

新潟市中央区西大畑にある「旧齋藤家別邸」。港町新潟の繁栄ぶりを物語る大正時代の建物とお庭です。保存を願う市民運動が実を結び、新潟市による保存と活用が決定。2012年6月9日から一般公開されることが決まりました。「旧新潟三大財閥の一つ齋藤家当主四代喜十郎が建てた回遊式の庭を持つ夏の別邸」と紹介され、建物や庭についての考証は進んでいます。 しかし、そもそも齋藤財閥とはどんなものだったのか、齋藤家の足跡の顕彰や発掘は進んでいません。当新潟ハイカラ文庫も保存運動に協力し、また今は展示や広報物などへの資料提供等の協力をしています。「旧齋藤家別邸」と「新潟」に興味があり、そして考えている皆さんに、今まであまり紹介されることがなかった齋藤家の足跡について、当方の研究や推測をご紹介します。

旧齋藤家別邸の秋

旧齋藤家別邸の会 公式ブログ

齋藤喜十郎のルーツ

各種文献に見る(二代)齋藤喜十郎
■幼名は庫之丞。天保元年生まれ。父は喜十郎、姓は齋藤。屋号は三国屋。家は代々清酒問屋。
■父を8歳で亡くし襲名。14歳で独立し自ら家事を統ぶ。励精発奮、大いに伝来の家業を拡張。庄内より銘酒を直輸して販路を拓く。
■25歳にして清酒醸造及び焼酎蒸留の業を営み、北海道へ輸出して巨利を得る。
■明治元年に日本型商船数隻を造りて松前樺太へ航海。米穀を輸出して奇利を得る。
■明治二年に官命で通商司を興し頭取になる。
■明治六年に長岡往来の川汽船を運航。その後数年海運事業に専らの力を注ぐ。すこぶる成功する。 その後海運事業を見切り、所有船をすべて売却し土地を購入する。
「越佐大観」「舟江遺芳録」を抜粋し総合。
考えられることとして・・・酒造から発展し、船主か廻船問屋か
公的な記録を探索できそうな手掛かりは、・25歳の時点で酒造株を保持していた。・39歳の時点で船主である。また大問屋株があったかもしれない。この時点でもかなりの財力がある。・蓄財した豪商というだけでなく、政府からの信頼がある。(明治2年の官命、明治6年の県令からの命などから推定)こういった点から齋藤家のルーツを探っていきます。

三国屋喜十郎の住居
幕末、(二代)齋藤喜十郎がどこに住んでいたかを調べてみました。喜十郎が14歳にして独立したころ、新潟では長岡藩の統治から天領にかわる“新潟上知”が行われました。江戸後期は資料が少なく苦労するのですが、この頃は統治の切り替え時期で、統計的資料がいくらかあります。
天保14年(1843)9月の新潟町地子帳に名前を見付けることができました。地子帳とは、地子納入のために土地や家屋の間口や所有者、地子高を記したものです。この時の地子帳は上下二巻あり、上巻は現在の上大川前通から西堀通に至る1番町から6番町について町名ごとに順番に記載されています。下巻はそれより下を記したと思われますが見つかっていません。
三国屋喜十郎は片原通り片原四之町西方に家屋がありました。これは今の東堀通7です。喜十郎宅は一軒おいて新堀のようです。旧齋藤家本宅の位置です。喜十郎宅の数軒上には三国屋喜八という家屋があります。この喜八さん、新潟町にやたら家屋(外屋敷)を所有しているのです。地子帳上巻のエリアだけで表のような家屋を所有しています。古町から西堀に抜ける間口の広い屋敷など、資産家といえます。

天保十四卯年九月改 新潟町中地子石高間数家並人別帳 上冊より

間口 場所 現在の地名 備考
三国屋 喜十郎 四間四尺四寸 片原通り片原四之町西方 東堀通7
三国屋 喜八 四間壱尺七寸 片原通り片原四之町西方 東堀通7
(外屋敷) 四間 本町通り上壱之町東方 本町通1
(外屋敷) 八間 古町通り神明町西方 古町通2 寺町江通し屋敷
(外屋敷) 四間 古町通り神明町西方 古町通2 寺町江通し屋敷
(外屋敷) 三間 本町通り本弐之町東方 本町通5
(外屋敷) 四間三尺 本町通り本弐之町東方 本町通5
(外屋敷) 四間 片原通り片原弐之町東方 東堀前通5
(外屋敷) 六間五尺 古町通り古三之町西方 古町通6 寺町江通し屋敷
地子高は割愛
資料が四之町より上の地域しか残存していない

新潟商工業史(明治43年)より天保14年新潟町方明細帳 酒造人と造り高

酒造人 造り高 住所
庄左衛門 310 石 本町通四之町
津右衛門 280 石 本町通六之町
金四郎 280 石 本町通横町
久蔵 280 石 大川前通三之町
梶太郎 270 石 大川前通四之町
蔵兵衛 250 石 大川前通二之町
喜八 250 石 片原通四之町
弥十郎 270 石 願随寺門前

こちらの資料をご覧ください。これは同じく天保14年(1843)の新潟町方明細帳の抜粋です。この三国屋喜八は造り酒屋なのですね。酒は当時も新潟を代表する産物の一つでした。主な出荷先は蝦夷地です。酒造業を営むには多額の資本が必要で、酒造業者は持っている酒株によって酒造石高が決まっていました。原料が年貢米のため統制が厳しく、酒造道具は登録が必要でした。登録していない道具を使っていると処罰されました。また酒を販売する人間に対しては、担保をとって酒を卸していたそうです。
新潟町では、長岡藩領の時代は、地酒が売り捌けるまで他地域の酒は販売禁止でしたが、天領になってからは自由になりました。


三国屋喜八は酒造家であり、町の有力者だった。そして三国屋金次郎も。
三国屋喜八は、造り酒屋で資産家であるだけでなく、町方役人も勤めていました。天保2年9月11日から長老格准席、ご城下へ金150両を上げたことにより翌3年3月11日からは倅が長老格となります。そして、この記録の隣には同じ期日同じ内容で、三国屋金次郎こと齋藤金四郎という名もあります。
この三国屋金次郎については、他の資料を繋ぎ合わせると見えてきます。文政13年(1830)10月の新潟町騒動聞書の“打ちこわしにあった家”に名前が出てきます。商売は酒屋質屋、被害は「小破」となっています。そして、前掲の酒造株保有者リストにも金四郎としてでてきます。本町通横町は現在の本町通12番町です。打ちこわしに遭うのは豪商富商だったということでしょう。
川村修就の文書には新潟物持名前というリストもあります。物持というのは資産家ということで、このリストにも喜八、金次郎が登場します。お墨付のお金持ちで間違いなさそうです。
この頃は全国的に天災や騒動が多く、奉行所から大店への拠出金の要求がありました。嘉永3年の窮民御救手当差出金之者名前リストにも、質両替酒造渡世の三国屋金四郎、酒造渡世の三国屋喜八が揃って記載されています。
また、新潟市史には上和田村(現在の江南区酒屋地区)の酒造家が享保年間に新潟の三国屋から酒造道具や蔵を購入したことが説明されており、三国屋という屋号の造酒家は江戸中期から新潟町で栄えていたようです。

三国屋金次郎こと金四郎は大問屋(廻船問屋)だった
こちらのリストは天保11年(1840)の川村修就文書「北越秘説」から抜粋した新潟町の大問屋の名簿です。大問屋は最大で48軒と定められていましたが、この時は41軒です。また26番以降(この番号は当方が便宜上ふったもの。川村文書にはない。)は休眠株となっており、実際に諸国廻船を取り扱っていた大問屋は25軒のようです。休眠ではありますが三国屋金四郎の名前があります。

1 塩屋 弥之助 17 若狭屋 市平 26 笹屋 兵左衛門
2 塩屋 弥三郎 18 高山屋 得八 27 河内屋 弥助
3 三国屋 茂兵衛 19 小川屋 皆五郎 28 高田屋 与十郎
4 津軽屋 次郎左衛門 20 敦賀屋 吉左衛門 29 小原屋 収蔵
5 近江屋 利右衛門 21 田中屋 吉左衛門 30 大坂屋 久平
6 櫛屋 勘兵衛 22 市嶋屋 喜平 31 玉木屋 彦兵衛
7 田巻屋 定右衛門 23 北国屋 藤右衛門 32 長濱屋 市蔵
8 笹屋 伊八郎 24 北国屋 藤次郎 33 藤野屋 新左衛門
9 北村屋 又左衛門 25 石崎屋 喜兵衛 34 櫛屋 庄左衛門
10 当銀屋 善平 35 平野屋 吉兵衛
11 大月屋 利平太 36 塩屋 久兵衛
12 間瀬屋 佐右衛門 37 津軽屋 与兵衛
13 小松屋 八右衛門 38 山崎屋 利左衛門
14 大西屋 甚助 39 三国屋 金四郎
15 小川屋 長右衛門 40 小原屋 善兵衛
16 會津屋 佐兵衛 41 信濃屋 與兵衛

大問屋は諸国廻船を取り扱う権利を有しており、日本海を往来する廻船の国名や帆印などを書き記した帳面を持ち、水戸口へ手代を派遣していました。心当たりのある船が入港した際は、手代が通じ船で近付き、船名と積荷を尋ねたうえで今の新潟の相場を伝え入港するかどうか意思確認を行いました。入港し船長が上陸した際は、往来手形を廻船会所へ提出し、写し取られた手形はその後洲崎番所へ回されました。
対して小問屋というのは、越後高田から庄内加茂に至る範囲を航行する3人以下の小さな船と陸路を来る商人が相手の業務を行っていました。当時新潟には前述の通り大問屋が41軒、小問屋は34軒ありました。また大問屋が所有していた渡海船(北前船)は150〜700石積のものが10隻あったと記録されています。

元治元年(1864)の家並帳、慶応3年(1867)の酒造人名簿では
喜十郎が35歳の頃、元治元年(1864)の「諸組家並小間石寄帳」と前述の天保の地子帳を比較してみます。三国屋喜八は同じく片原四之町西方に居住し(代替りしているかもしれない)外屋敷をあちこちに所有しています。しかし、天保の台帳よりも一軒下手に移り、以前喜八の住居だった家屋には三国屋喜七が住んでいます。新潟町には三国屋を屋号に持つものが何名かいますが、名前が「喜」でつながる者は親戚と考えてよさそうです。
そして喜十郎の家は変化ありませんが、大川前通五之町、古町通五之町東、古町通六之町西に外屋敷を所有しています。このうち大川前通五之町の外屋敷が「新潟古老雑話」に出てくる“外国人に又貸しされた家”ですね。
また、この年は喜十郎の弟庫次郎に長男庫吉(後の四代喜十郎)が生まれた年でもあります。しかし三国屋庫次郎で家を探しますが見つかりません。独立せずに喜十郎家にいたのか、違う名前になっているのか謎です。庫次郎は実業面でも資産保有面でも資料に名前が出てこない人です。 もう一軒の豪商三国屋、本町通横町の三国屋は三国屋権次郎になっています。間口四間で片原通までの通し屋敷ということが分かりました。
そして、慶応3年(1867)の酒造人名簿では新潟町の造酒家は5軒、三村屋太太郎右衛門、三国屋喜八、下宿屋長八、三国屋喜十郎、河野屋藤兵衛となっており喜八とともに喜十郎の名前が出てきます。

喜八、金四郎と喜十郎・・・その後の三国屋
江戸後期、新潟町には三国屋という豪商がありました。本町通横町の三国屋金四郎と、片原通四之町西の三国屋喜八が有力で、ともに酒造株を持ち、町方役人でもありました。金四郎は質屋もやっていて、廻船問屋の大問屋でもありました。喜八と金四郎は同じような業種であり、お上に対しても足並みを揃えていることから強い親戚関係があったと推測します。
喜十郎は喜八の傍で育っており、名前につながりがあることから親戚関係があったと推測できます。(明治中頃の齋藤家の文書に二代喜十郎を“宗家二代喜十郎”と表現しているものがありますので、天保8年頃亡くなった喜十郎が、初代齋藤喜十郎で間違いないようです)
上知後、酒の販売に統制がなくなったことから、庄内から酒を入れ大胆に売り捌きます。親戚は財力があり、酒造株もありました。25歳での酒造りは、親戚からの酒造株譲受か何らかの形での相続とも考えられます。その後、株仲間制度廃止前に船を建造し蝦夷樺太航海をしたことや、政府から信頼を受けての通商司任命など、もしかすると三国屋全体の後継者となったのではないでしょうか。
喜十郎が盛業する背景には、もともと大きな財力がありました。その背景は単なる財力ではなく、町方役人を勤めたという、お上や政府からの信頼もありました。富商でありながら打ちこわしが小規模で済んだということは、町人に対する接し方も上手だったのではないでしょうか。そういう意味で町人からの信頼もあったのではないでしょうか。
また、喜十郎には庫次郎という弟がおり、若くして亡くした父の後を、兄弟で盛り立てたということもあったと思います。(庫次郎は間瀬屋から嫁をもらい、その長男の庫吉は喜十郎の養子になり四代喜十郎を襲名している。)
あくまでもこれは「十数年間での喜十郎の盛業」を取り巻く環境から推定したものです。今後の資料の発見や後考を待ちたいと思います。

資料:
齋藤家の系譜1(歴代の活躍年代を年表にしたもの)
齋藤家の系譜2(家計図)

船持ちの廻船問屋としての活躍

明治元年に新潟樺太間の航海
“経済界の大勢、此に一転せんとするの機運に際会し、敏くも眼を北方辺彊に注ぎ、日本型商船数隻を造りて、松前に赴き進んで樺太に至りて大に貿易を試み、殊に米穀の直輸に依りて奇利を博したり。新潟樺太の航海、蓋し之を以て嚆矢とす。”(越佐大観)
残念ながらこれを裏付ける他の資料がありません。北越戊辰戦争の年で、新潟町では米穀買占めの噂に憤った町民による打ちこわしなどもあった大混乱の年のことです。
この時代、北海道や樺太で商売をするためには、それぞれ指定された地域の交易権を有する“場所請負人”とのやり取りが必要でした。当時の北海道の入り口は、江差、松前、函館の3箇所ですが、場所請負人は当地に居ることはなく、この3港で取り仕切られていました。逆な言い方をすれば、北海道各地の交易権を持っていた場所請負人は、この3港に本拠がある豪商たちでした。(本州各地の豪商が出先を構えている例も多くあり“本拠”という表現も広義です)樺太へ行き交易をするためには、まず一旦この3港で樺太の場所請負をしていたものとやりとりをした上で向った筈です。新潟側の資料は乏しいですが、北の湊には何か痕跡があるかもしれません。
また同様の記述は舟江遺芳録にもあります。筆者の風間正太郎は新潟商工会議所の書記を務め、晩年の二代喜十郎と交流があったと考えられます。風間正太郎は江戸時代から明治にかけての様々な資料を整理分析し郷土に関する書物を多く残しているので、この喜十郎に関する記述も具体的資料には乏しいが信ずるに足るものではないかと思います。

明治2年には江差に入港した記録
翌明治2年の5月には江差港に齋藤喜十郎の船が入港した記録がありました。江差には老舗の甲屋という廻船問屋があります。問屋は沖ノ口役所の徴税業務を代行しており、甲屋が徴税業務のために出入りの船の石数や乗組員人数などを記帳していた「間尺帳」にそれを見付けることができました。

5月8日 越後新潟之 三国屋喜十郎殿 沖船頭五三郎殿 福寿丸
(余談)新潟の船大工
元禄10年には62人、文政5年には13人。大川前通上一之町から大川前通横町あたりに居住し、川岸に船蔵と称する工場を設けていた。明治6年には150人、明治36年には115人、明治42年には104人の統計がある。
明治も後半になってくると船大工ではなく造船所を称し、小蒸気船、スクネル型風帆船の造築と修繕に応じるものもいた。明治37年の統計では、小島造船所、小島松蔵造船所、永松造船所、古山造船所。明治38年には入船町に日本石油株式会社附属新潟鉄工所造船部も竣工しています。


明治初期の二つの官命 新潟為替会社と新潟川汽船会社

新潟為替会社へ出資させられる
新政府は通商と金融関係をとりまとめる機関として「通商司新潟支署」を明治2年12月に設置しました。この監督下に新潟為替会社がつくられました。この会社の役割は資金の貸付や公金の取扱い、両替や預金、年貢米や穀物の売買、諸国産品の流通把握などでした。独自紙幣の発行も認められており、為替会社券(兌換紙幣)を5万両発行した記録もあります。
この会社は半官半民のようなもので、政府は地元富商に出資をさせました。頭取は6人で白勢篤之介、本間新作、鈴木長八、村田吉左衛門、高橋治七郎、小川弘二郎。取扱は12人で齋藤喜十郎、鈴木佐右衛門、大西治三郎、中山藤兵衛、高橋屋栄助、三条屋市十郎、布屋忠蔵、国分屋喜兵衛、安宅屋二右衛門、八田屋与右衛門、鍋屋治作、藤井屋忠太郎でした。
残念ながら新潟為替会社は、貸付金が回収できなかったり、出張社員が公金を濫用したり、穀物運搬船が遭難したことなどが原因となり業績が悪化。明治5年には経営が行き詰ります。結局資本金の93%を失って解散しました。
齋藤喜十郎はこの役職を就任後しばらくしてすぐに辞任したとあります。
また越佐大観などでは「頭取」とありますが、正確には「取扱」職です。

国立第四銀行の役員になる
明治7年3月に開業した第四国立銀行の役員になり、勘定方(出納掛兼貸付掛)の担当になっています。頭取以下手代まで13人しかおらず、役員が今で云う“行員”の仕事をしていました。この13人は地主や富商など有力者ばかりですが、名誉職ではなく本当に業務にあたっていたようです。なにせ国立銀行条例の規定で日勤が定められていたそうですから。
国立第四銀行は設立早々経営困難に陥り、開業1年後の明治8年2月の役員改選では全員が再任を辞退しました。この年、銀行を取り巻く状況は更に混乱し何とか役員の再選出も行われましたが、結局役員は4人になってしまいました。

新潟川汽船会社を設立
明治5年に着任した楠本正隆県令は、施政だけでなく、文明開化の風を取り入れて旧来の風習を改めることにも努力をしました。明治7年7月、県令からの命令に近い奨励で新潟川汽船会社が設立しました。齋藤喜十郎、鈴木長蔵、鈴木長八、桜井勘蔵ら13人の出資によるものでした。新潟と長岡間で上り11時間下り8時間ほどを要したそうです。就航した船は外輪式の木造蒸気船(火車船)で魁丸といいました。県が横浜でイギリス商人から購入し貸与しました。(越佐大観では明治6年となっていますが正確には明治7年です。)
新潟古老雑話で四代喜十郎は「乗客も貨物も沢山で溢れ落ちる位・・・儲かったから、其翌年は大坂から和唐丸を買い、その後近江の琵琶湖にあった豊丸を求めたがいずれも古船であった。」と回想しています。
この回想は二代喜十郎のものではなく四代喜十郎のもので氏は当時10歳ほどです。少し事実と異なる点があるようなので補足します。
豊丸を購入したのは明治8年で間違いないのですが、和唐丸は明治8年に加茂の富商一派が大阪から購入し新潟三条間に就航させました。この一派に小池内広という人がおり、明治12年に不幸にも自身の船和唐丸の外輪に着物をまき込まれて死亡します。この現場は現在の江南区花ノ牧付近でした。小池内広は神仏混交を正すという信念をもっていて、花ノ牧鎮守の仏体の両手を折り箱詰めにするという行動を起こしたことがありました。よってこの事故は仏罰だと騒がれました。その後和唐丸は川汽船会社に買収され旭丸と改称し三条航路に就航しました。しかしこの船はよくよく人を喰う船のようで、明治13年に白山の繋留所でボイラー爆発を起こし多くの死傷者を出しています。
政府は明治12年に交通運輸業を自由化しています。この頃は川汽船に競合会社も現れ、事故も災いし、新潟川汽船株式会社は船を競合他社へ譲り休業します。これ以降、川蒸気の会社は競争と合併などが続きます。魁丸は後々、中野平弥が県から払い下げを受け、阿賀丸と改称し新川や小阿賀野川航路に就航しました。後述しますが豊丸は改造され改進丸になり、新潟両津航路に就航します。

明治初期の酒造

明治7年には清酒ではなく、味醂と焼酎を造っている
幕末の慶応3年の酒造人名簿に名前が現れた喜十郎ですが、明治に入るとまた動きがあるようです。酒造の株仲間は明治4年12月に廃止され、醸造免許の鑑札制になりました。明治7年11月の鑑札名簿では清酒醸造家は田村久三郎、吉川平七、笹川金五郎、齋藤喜八、三村雄吾、浦野良吉となっており喜十郎の名前がありませんが、味醂製造家、焼酎製造家の中に齋藤喜十郎の名前があります。焼酎の移出先は北海道奥羽方面となっています。


海運全盛期

“爾後数年専ら力を海運事業に傾け北陸全道未だ洋風型風帆船を見ざるに先ち、頗る成功する所ありたり。・・・既にして忿を海運事業に絶ち所有の船舶は和洋を問はず悉く之を売却し、代ふるに土地の購入を以てし・・・”(越佐大観)
新潟港は開港以来、外国貿易がパッとしなかったことは皆さんもご存知と思います。しかし国内海運は活況でした。しかし、この頃の齋藤喜十郎の海運業の具体的資料はあまり発見されていません。

出雲崎港 熊木屋の御客上下帳
出雲崎港には熊木屋という廻船問屋があり「御客上下帳」という貴重な資料が残されています。これは文化5年から明治20年の間で5冊あり、入津した全廻船の船主、船名、積荷、帆印、そして商いの成立不成立などが詳細に記された北前船研究の宝石です。
この中では明治9年5月6日に新潟 山三 三国屋喜十郎の福寿丸(船頭 倉吉)が柏崎米を積んで入港した記録と、同年8月25日に同じく福寿丸(船頭 善井・倉吉)が石狩鱒200石目を積んで入港した記録があります。全5冊のうちで三国屋喜十郎の船の記録はこの2回ですが、同じく熊木屋の「永代御客帳」(顧客リストのようなもので、ほぼ日本全国の廻船問屋が出雲崎の熊木屋と取引があったことが垣間見える)には、明治9年5月2日に新潟 山三 齋藤喜十郎の明神丸( 船長 あら井浜 丑蔵)と、同日に船名記載なしで(船長 あら井浜 倉吉)が入港した記録、他に三国屋喜十郎の名前も別掲で記載があります。「永代御客帳」には他にも新潟の廻船問屋の名前が多くあり、鍵富三作の船が明治13年に時化のため浜上げし熊木屋に宿をとったことなどの記載もあり、生き生きとした史実が感じられる資料です。出雲崎には他にも泊屋という廻船問屋の資料も残されていますが、こちらに三国屋喜十郎の記録はありませんでした。熊木屋を定宿として商いをしていたということでしょう。

石見国浜田港 清水家と楫ヶ瀬家の諸国御客船帳
島根県浜田市の廻船問屋清水家と楫ヶ瀬家に残る「諸国御客船帳」には明治3年に三国屋喜十郎の手船永寿丸と栄重丸(柏崎登り御入船)が入港した記録、明治14年に手船八幡丸(松前登入津)の記録があります。(こちらの資料に関しては当方で直接確認することができず、別な一括した研究資料からの再引用です。そのため各船が清水家、楫ヶ瀬家どちらとの取引だったのか当方では不明です。)
出雲崎と山陰浜田の廻船問屋の記録は「完全なもの」として北前船研究の基礎資料になっています。近世の日本海海運は大変活発でかつ各港間の船や物資の動きが重層的です。これら以外にも、近畿、瀬戸内から北海道までの西廻航路の各港に残る資料を丹念に探すと、喜十郎の足跡が他にも見付かるかもしれません。

明治14年4月に洋式船落成の記事
数少ない資料の一つが明治14年4月16日の新潟新聞の記事です。誌面は既に読みにくい状態なので引用します・・・昨日は船場町二丁目の河岸にて東堀通り七番町の三國屋喜十郎の持舩なる共用帆前船の新造落成に付き臺卸しの式を執行し船中より切餅或ひは文銭等を撒きちらし小供等に興へるので見物人は群集なし其邊は中々賑はいました。・・・帆前船とは洋式帆船のことです。記事の主眼が「帆前船落成」にあったのか「賑わい」にあったのか判断できかねますが、越佐大観の記述と併せて考えると、当時新潟の船主で洋式帆船は珍しかったと言えそうです。

開港以降入進外国船及西洋形日本船略図(明治15年8月・新潟税関)
開港時からそれまでの間に入港した船の様子104図からなる記録で、齋藤喜十郎の名があるのはこの一枚だけ。船の特徴を絵で示しスペックを簡単に説明している。図には「持舩」と書かれているものと「用舩」と書かれているものがある。オーナーなのか荷主なのかという区別なのだろうか。

明治以降の廻船問屋とは
江戸時代の新潟の経済の中心は廻船問屋でした。廻船問屋の商売とは、産物の地域間価格差で利益を得る商売です。瀬戸内の塩を新潟へ、新潟の米を蝦夷地へ、蝦夷地の海産物を大阪へ。地域の特産品と有利な価格差が得られる消費地によって成立する業態です。入港する船と荷主や買主との仲立ちをして口銭を得、自分たちで商品を捌いて販売益をあげることもできました。また船持の有力廻船問屋は自前の船で各地の産物を買積みし諸国間で動かして利益を上げることもできました。株仲間の制度で48軒に制限されていましたので、まさに特権でした。
そして、明治維新で自由競争時代になると、新潟の有力商はこぞって廻船問屋業に参入したわけです。しかし、明治政府はいろいろな近代化を進めます。前述のように通商司や国立銀行などにより統一した金融や為替の制度を作ります。郵便と電信が日本をくまなく網羅するようになります。これにより産物の地域間価格差というものがなくなり、買積み廻船で巨利が得られる時代ではなくなっていきました。また、海運業界は三菱会社の力が強くなり、対抗する三井も攻勢をかけます。日本通運の前身である陸運会社も新潟に支店を作るなど全国規模の輸送網が確立されていきます。
明治20年くらいになると、廻船問屋業は、買積みではなく運賃積みの廻船業(回漕業)、廻船代理店業に変化していきます。また、和船は甲板がなく構造的に荒天に弱いため、洋船が普及してくると旧来の和船しかもっていなかった店はさらに追い込まれました。そして明治も終わりの頃には鉄道網が主要な地域に到達し国内輸送を担うようになり、廻船問屋は消滅します。

齋藤喜十郎の先見性
幕末から廻船問屋業で巨利を得てきた喜十郎ですが、越佐大観によると明治10年代早々には船を売り払って撤退したとあります。廻船問屋の衰退を早々に感じていたということです。為替会社や第四銀行などに携わり、近代化の潮流を人よりも早く感じることができ、そして行動力があったということでしょう。幕末の酒の直輸や蝦夷樺太交易から、この撤退までの動きは非常に興味深くエキサイティングです。
明治10年代は日本経済に大きな波がありました。前半は好況で明治14年はインフレの頂点。そして明治18年は一転して“松方デフレ”になります。齋藤喜十郎は好況の頃に持船を売り払うことができたのでしょうか。土地の集約については“新潟市史”に解説があり、デフレで疲弊した農村から土地を買ったということのようです。明治20年頃から〜30年頃に土地を増やしています。
明治36年「富之越後」抜粋=新潟市在住の大地主(PDF 6.1MB)
農村部の土地を集積しており、小作地の“地主経営”をしている訳だが、在郷の地主と比較すれば齋藤喜十郎が所有している農地は決して広大なわけではありません。これを本業にしていたとはいえないでしょう。
また、船を売り払っても海運業から撤退したということではないようです。後々明治33年に新潟回船問屋業組合が結成されますが、齋藤家は庫造(齋藤支店)がそこに加盟しています。齋藤支店の業務は江戸時代の廻船問屋とは少し内容が異なりますが海運交易です。海産物や米、塩といったものを幅広く動かしています。本家は倉庫業と保険代理店業を行っていますし、様々な形で海運には携わっているのです。そして越佐汽船を設立し沿岸航路やウラジオストク航路にも進出しています。


越佐汽船の設立

明治初期の佐渡航路は苦難が続いた
現在の佐渡へのメインルートは新潟両津航路ですが、明治初期は距離が短い寺泊・赤泊・出雲崎と小木間のルートがメインでした。新潟両津航路は、新潟が開港地に指定され夷(両津)が補助港となったことから、両港を結ぶため、政府が蒸気船を建造したことに始まります。が、この船は外国人の旅客や荷物を運ぶもので、運上所備え付けのもので一般人が利用するものではありませんでした。この船は新潟丸といいます。後にもう一隻北越丸も加わります。
明治11年には両津町の若林玄益らが伏木港から川蒸気(小型外輪船)を傭船し運航しますが難破して中止、明治14年には新潟の早川正利らが同じく外輪船を就航させますがこれも難破。その後まもなく新潟の荒川太二らが新潟税関から新潟丸と北越丸の賃下げを受け、一般旅客や貨物の取扱いを開始しました。荒川らは新造船の相川丸を就航させるなど順調に推移しましたが、やはり程なく相川丸が遭難沈没。また、早川は明治17年に川蒸気の豊丸を改造して改新丸とし、晴天の日だけ運行を続けたという記録もあります。

齋藤喜十郎の参画 =越佐汽船会社の設立
明治18年6月、佐渡側は前述の市橋を中心として、新潟側は齋藤喜十郎が中心になり越佐汽船会社が設立されました。当初は佐渡側の出資が多く本社も両津でしたが、後々新潟側の資本が増え本社も新潟に移りました。船は前述の小島造船所で造られた「度津丸(わたつまる)」でした。この船は改進丸の機関を利用したものでした。明治19年の記録では新潟と両津を106往復、新潟直江津を47往復となっています。かなり順調な滑り出しといえるのではないでしょうか。また、越佐汽船は創立当初から新潟佐渡間だけでなく沿岸航路にも参入していたのですね。
越佐汽船は非常に好調で増船を続けます。競合者も現れましたが程なく買収しています。佐渡の人たちにとって、越佐汽船の成功は生活環境を一気に便利にさせる光明であったと思います。
越佐汽船は明治25年に新潟酒田航路にも参入しています。新潟酒田航路には明治16年から村上町の樋口次郎平が三吉丸汽船会社を設立し就航させていました。三吉丸汽船は不定期の新潟両津航路、後々の新潟北海道航路などにも参入しています。越佐汽船は三吉丸と競合関係にありましたが、明治28年には三吉丸から船を購入し手打ちをしています。越佐汽船は大正13年の羽越線全通まで新潟酒田航路を一手に担っていました。また越佐汽船会社は明治26年の商法旧会社編施行で越佐汽船株式会社に改称しています。
その後も、小樽・函館・伏木・下関・大阪・横浜・東京などに定期航海。二代喜十郎の没後になりますが、明治40年に新潟県の命令航路指定を受け新潟ウラジオストク直行航路を開設しています。第一回の航海は「第十三度津丸」が就航。年4回〜6回の航海を行い大正2年まで続きました。越佐汽船は大正7年に新潟汽船株式会社と改称しています。役員は変遷がありますが齋藤家は大株主で重役を送り、四代、五代の喜十郎が社長を務めていたことがあります。
新潟汽船株式会社は大正期には本邦汽船事業経営五大会社の一つとして数えられるほどに成長しています。

命令航路、敦賀港との競争
新潟は明治の早い頃からウラジオストク貿易に活路を見出し奮闘しています。航路開設が課題で、そこには補助金が出る「命令航路」指定が重要です。(命令航路の運動については当サイトFile.3File.4の日満連絡航路についても参照ください)新潟港からの北洋航路は敦賀からのルートの寄港であったりで使い勝手が悪いものが多かった、しかし独自に直行運航させるには貨物旅客とも少ない。新潟は江戸時代から米を背景に発展してきましたが、近代化が進むにつれ都市部では工業発展があり、京阪神を背後に控え就航本数も多い敦賀港はますますリードしていきます。新潟港の築港が進んでいないということも足枷せでした。

越佐大観や他の人物史で語れているワンフレーズとは異なる
現在、二代齋藤喜十郎を知る手掛かりとなる書物は、当サイトでも度々登場している「越佐大観」や「舟江遺芳録」です。これら書物では、明治10年代中頃に所有船をすべて売り払い、海運事業を絶ち、土地を購入し地主となったというフレーズがあります。これを読み喜十郎を「先見性があり、変わり身が早く事業の指向を次々と変えていく」と受け取るのは少し乱暴な解釈です。
先見性があることも行動力があることも間違いありませんが、喜十郎は海運業から決して身を引いたわけではありません。汽船の時代を察知して帆船を売り払ったと考えることもできそうです。そして個人商店の廻船問屋から、法人である汽船会社への出資という形で経営形態が変化しているのです。また宗家は倉庫業の法人(合資会社齋藤本店)へと変わり港に深くかかわっています。そして後述しますが新潟硫酸会社の設立など工業分野への進出もしています。

二代齋藤喜十郎は、港と関わりが強く、新潟港近代化の黎明期に君臨している
■ 特産物の米や酒をバックに、港から外を見ている
■ そして地域間の価格差や、政治の動きなど「風向き」をよく感知している
■ 和船→洋帆船→汽船 内航海運→鉄道網と交通手段の近代化を先見的に考えている
■ 通貨、為替、株式など経済の近代化にも明るい
■ 商業の発展だけでなく、新潟の将来に工業の重要性を感知している
・・・そしてその姿は“筋骨逞しく見上げるばかりの大男”(新潟百名士 新潟公友社 梅田江湖 大正13年出版 著者の回想)であったということです。
後のことになりますが、二代喜十郎は明治37年2月に東京の旅館(島屋平七)で亡くなりました。


世代交代と銀行業への進出

株式会社新潟貯蓄銀行の設立
明治20年代後半になると、二代喜十郎の後継者の活躍が目立つようになります。新潟では早くから楠本県令が文明開化を進めていましたが、青年実業家の間でも月に一度、洋食店「滋養館」で“洋食を食べる会”が開かれていました。この会は明治24年頃からは“商話会”となりました。参加していたのは幕末から明治初期の新潟をリードしてきていた富商や有力者の二代目です。この会のメンバーを中心に明治28年10月に株式会社新潟貯蓄銀行が開業しました。齋藤庫吉(四代喜十郎)が専務取締役を務めています。若い経営者ばかりだったからでしょうか、日曜営業で預金者の便宜を図ったり積極的な貸し出しを行ったりと斬新な運営で業績を順調に伸ばしています。明治37年からは10%、明治41年からは20%という配当は驚くばかりです。齋藤庫吉は明治30年代前半に専務の役を辞していますが、大正中頃には取締役に復帰しています。この動きは後述する齋藤家の機関銀行となる株式会社新潟商業銀行(後に新潟銀行)の創立や大正期の貯蓄分離政策などによるものです。株式会社新潟貯蓄銀行は昭和19年に第四銀行と合併しています。

本町通と新堀通の角地。昭和19年に第四銀行へ合併された後も、昭和39年5月23日まで同行新堀支店として使われていました。

    
新潟貯蓄銀行新津支店の通帳(大正4年)

齋藤家の機関銀行=株式会社新潟商業銀行の創立
明治30年4月、齋藤家が中心となり株式会社新潟商業銀行が開業します。当時の新潟銀行(旧国立第四銀行)の営業方針に不満を持つ商人たちが集まり、齋藤家が主導権を握っていました。とはいえ、旧国立第四銀行が明治29年12月に営業満期となり株式会社新潟銀行として再出発した際の役員の中には、取締役の一員として八木朋直が、監査役の一員として牧口義方と齋藤庫吉が入っていますから、事情は複雑なようです。

設立発起人 開業当時の役員
齋藤喜十郎 800株 専務取締役 齋藤喜十郎
八木朋直 600株 斎藤庫吉(四代喜十郎)
齋藤庫吉(四代喜十郎) 600株 八木朋直
小澤七三郎 300株 取締役 伊藤文吉
中山藤七郎 300株 小澤七三郎
石黒忠作 200株 円山七衛武
村田敬治 200株 牧口義方
齋藤庫造 200株 安宅善平
浅井惣十郎 150株 取締役兼支配人 関 彦太郎
本田伊平 100株 監査役 中山藤七郎
山本平吉 100株 南 半之助
青山松蔵 100株 青山松蔵
大井市次 100株
斎藤吉作 100株
小出喜七郎 100株
長浜省作 100株
田代三吉 100株
荒川才二 100株
桜井伊八郎 100株
南助吉 100株
小川佐太郎 100株
岡田平吉 100株

齋藤家の姻族である伊藤文吉、小澤七三郎などが出資者や役員に入っており、非常に齋藤色の強い銀行です。伊藤文吉は後々保有株数を増やしており、齋藤家各個人名義、合資会社齋藤本店名義、伊藤文吉名義など関連あわせて常に保有株式数の20%を上回る状況でした。また専務取締役(頭取)は二代喜十郎、四代喜十郎、五代喜十郎と引き継がれています。
業務内容や業績は「商業銀行」の名の通り、預金口座は当座預金の比率が他銀行よりも多く、貯蓄預金の顧客も小口の商業者がメインでした。

大正6年に上大川前通8番町へ移転新築した際の記念絵葉書
明治30年の設立当初の本店は上大川前通10番町1番戸(広小路の角)にあった。本店移転後は同行広小路支店として使われた。

役員の動きは新潟経済界の力関係そのもの
大正に入ると役員に山口誠太郎や中野忠太郎が加わり株数も増やしています。石油業で成功した二人です。このことからも考えられるように、新潟は明治までは商人や地主が強く、大正になってくると石油や工業で財を成した者が強くなってきます。齋藤家はすぐれた感性でこの潮流をリードし、米を中心とした古い形の商業から金融、工業と脱皮しています。
また、新潟商業銀行は、第四銀行が名称を「国立第四銀行」→「新潟銀行」→「第四銀行」と変えたことにともない、大正7年4月から商号を「新潟銀行」に変更しています。
大正10年には貯蓄銀行法の公布に伴い、貯蓄部門を「新潟興業貯蓄銀行」として独立させ、支店の一部を譲渡しています。その後、戦時金融統制により昭和18年3月に第四銀行と合併しています。これにより、五代喜十郎は第四銀行の副頭取となり、伊藤文吉は同監査役になりました。

昭和12年には本店を改増築し、以前の赤煉瓦から鉄筋コンクリート造になった。
昭和18年の第四銀行合併後は昭和19年4月28日まで同行上大川前支店として使われました。
戦後は新潟証券取引所として使われ、近年惜しまれながら取り壊されました。

株式会社新潟興業貯蓄銀行
前述のとおり、新潟興業貯蓄銀行は新潟銀行から貯蓄部門が分離し大正10年に設立された銀行です。専務取締役は齋藤庫四郎(五代喜十郎)、取締役には四代喜十郎、伊藤文吉、山口誠太郎、中野忠太郎、齋藤彦太郎、円山琢左衛門、田代三吉、小澤七三郎、監査役には齋藤庫之助、小川種太郎、内藤権兵衛、早山与三郎が就任しています。この銀行も後の昭和19年11月に第四銀行と合併しています。
同族同系色が強い役員メンバーですが、安田の大地主齋藤彦太郎については、当時齋藤喜十郎家と血縁関係があったという資料を当方の調査では見付けられていません。

(余談)安田(阿賀野市)の齋藤家
安田の大地主齋藤家のルーツは米沢です。上杉氏に近侍し越後へは先ず刈羽郡赤田城に入りました。その後、安田組大庄屋を命ぜられ安田に入ります。江戸時代中頃のことです。大庄屋として管内を管理し、文化3年(1806)には酒造も始めます。九代信寿は慶応3年(1867)に苗字帯刀御免となり、その後新発田藩の会計職も務めています。新潟興業貯蓄銀行の役員に名前が出てくる齋藤彦太郎は名を有寿といい彦太郎は通称です。
現在本宅は孝順寺というお寺の所有に移っていますが観覧することができます。安田には他にも分家した大地主“角齋藤”“上齋藤”という家もあります。

(余談)齋藤喜十郎家と安田の齋藤家が「遠い親戚」とする記述(1999年7月25日:新潟日報)について
おそらくこの記述は、戦後、齋藤喜十郎家の分家(齋藤支店)が安田齋藤家と姻戚になったことを指すものではないかと考えられます。齋藤家の歴史の中では比較的近代の出来事です。苗字が同じで「遠い親戚」という漠然とした表現は、遡るとルーツが一緒というイメージで捉える読者も多いと考えられ、この記事が何を指し示しているかは不明です。齋藤喜十郎家が齋藤財閥として新潟の近代化に活躍した頃(明治〜戦前)の姻戚関係については後段でご紹介します。

新潟信託株式会社
大正15年に設立された信託会社で、四代喜十郎が出資し取締役に就任しています。当初の資金運用先は貸出金が多かったようですが、戦時色が強い時代になってくると民間への貸し出しは減り、軍需会社の社債引受けや国債の消化になっていきます。昭和18年に第四銀行に合併しています。


明治中期の様々な「取引所」について

新潟には米の取引を行う「新潟米商会所」が明治10年からありました。明治26年に今までの米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例が廃止され新たな取引所法が施行されると、新潟には相次いで様々な取引所が設立されました。
株式会社新潟米穀取引所・・・旧米商会所が改組したもの。
株式会社新潟三品取引所・・・生糸、綿花、綿糸の取引を行うもの。明治32年解散。
株式会社新潟商品取引所・・・石油、食塩、砂糖などの取引を行うもの。明治35年解散。
株式会社新潟株式取引所・・・株の取引を行うもの。齋藤庫吉が理事に就任している。当時の売買高からは、鉄道株、石油株、電力株に人気があったようです。後に米穀取引所と合併し、株式会社新潟米穀株式取引所となっています。

 

北越鉄道株式会社の新潟停車場問題

・・・編集中

新潟硫酸の設立

製油に肥料に・・・新潟は硫酸の需要が大きかった
明治20年代以降、新潟県では石油採掘が活発になります。当時の製油には硫酸が不可欠で、当初は大阪方面から供給を受けていました。しかし、その原料となる硫黄は北海道が主産地で、新潟で硫酸を使うには輸送コストだけでも他地域と差がありました。さらに輸送中の破損による目減りもコスト増の大きな要因でした。そのような状況下で新潟で硫酸を製造しようという動きが現れ、明治29年、齋藤庫吉(四代喜十郎)らが中心となり新潟硫酸会社が設立されました。本社は並木町に置かれましたが(後に工場内へ移転)、工場は関屋大川前に2,475坪余りの土地を確保し明治30年7月に竣工しました。この場所を選んだのは水運の利によるものとされていますが、後々に柏崎方面とつながる越後鉄道の開通をにらんでいたのかもしれません。また、新潟に製油所が増えるのは明治30年代半ばからで新潟硫酸会社設立時には、小規模な「山平製油所」(白山浦二丁目:菅原平四郎経営:明治8年8月の創業で新潟市初の製油業)、荒川才二の「新潟礦油株式会社」、青山松蔵・高橋助七の「新潟鉱業株式会社」くらいしかありませんから、眼は中越方面に向いていたということでしょう。
需要は急拡大し、まもなく明治32年には第二工場の計画が上がります。役員と技師長が京阪を調査・視察し、新式の建築を施し明治33年末に竣工しています。
また、明治33年5月には、当時の石油産業の中心地ともいえる柏崎町に販売部を設置しています。そして明治35年には「大阪アルカリ株式会社」「日本硫酸株式会社」「大阪硫曹株式会社」「硫酸晒粉株式会社」との間に協定を結び「越後硫酸共同販売所」を下大川前通4ノ町に置きました。各社製品の売約や各種事務を取扱う事務所です。これにより柏崎の販売部は閉鎖しました。新潟県内の製油に関わる硫酸がこの販売所にてすべて取り仕切られることになったわけです。

設立当初の役員
新潟硫酸会社の業績は順調で、後々にかけて齋藤家が支配する企業ですが、設立当初の役員は、社長が鈴木久蔵、専務取締役が荒川才二、取締役が齋藤庫吉と、前述の銀行と同じく幕末から明治初期の富商の後継者が多いのです。

  
明治41年に長野で開かれた「一府十県聯合共進会」にて3等受賞を荒川才二へ通知した葉書
明治41年11月6日の長野郵便局の消印となっている
    
明治42年実逓の絵葉書

    
大正10年の記念印の絵葉書

        
創業30周年記念(昭和初期)

越後鉄道沿線名所絵葉書から関屋(大正から昭和初期)
越後鉄道は軽便鉄道だったが、西山油田と新潟を近付けた

新潟硫酸の化学肥料は他社と比して優良かつ廉価な製品だった
日露戦争で肥料として使用されていた中国東北部からの大豆粕の輸入が止まると、化学肥料の需要が増し、新潟硫酸でも明治40年からは化学肥料の製造を始めます。10,000坪以上の敷地を確保し工場を新築しました。成分が均一で施肥に適する粉末状にすることに研究努力を注ぎ、新式の装置を考案し設置。優良製品というだけでなく廉価だったということです。製品の種類は17種類を数えました。


(余談)明治30年設立の北陸肥料株式会社は関連があるのだろうか
新潟硫酸株式会社の設立は明治29年8月ですが、その後まもなく明治30年1月に西堀通6に「北陸肥料株式会社」という会社が設立されています。代表者の名前は齋藤金四郎。幕末に質屋・酒造を営んでいた富商三国屋金四郎と同じ名前です。襲名していて同家であれば、喜十郎家との関係も近いものだったと推測されます。この会社は明治40年代には既にありません。
新潟硫酸の50周年史によると、新潟硫酸の化学肥料製造開始が明治40年で、全国的な化学肥料の製造や需要の拡大もその頃であったということになっていますから、明治30年頃の人造肥料というのはかなり先進だったようです。新潟硫酸は当時他社との合併などをしていませんので、新潟に僅か数年間あった人造肥料会社というのは謎です。
明治29年の地図では、旅舎・人造肥料製造の齋藤となっています。

(余談)その後の調査
この会社の発起人は、齋藤金四郎、吉川庄二郎、飯塚吉太郎、丸山淺五郎。主な業務は、直江津沿岸の海岸草と高田町新潟町の塵芥や獣腸骨を原料にした肥料の製造。北海道産出肥料の受託販売。ということが分かりました。人造肥料といっても化学肥料とは異なるものでした。十年後の統計には出てこない会社ですので、実働期間はかなり短かったのでしょう。
この頃は、当新潟ハイカラ文庫が長年追いかけている「新潟時計」(東大畑通の木下徳三郎が明治25年ごろから数年間製造していた)を筆頭に、新潟町人の色々な人が新たな技術や商売に挑み、そして数年で消えていっています。今では知ることすら難しい小さく短期間の手工業ですが、丹念に探っていけば、新潟の史実がまた生き生きとしていくと思います。


石山工場と公害問題
昭和12年には新たに硫酸アンモニアを製造するために榎町に石山工場を竣工しました。しかし昭和12年の稼動開始からまもなく、4月から6月にかけて、石山工場の排煙が原因と思われる農業被害が東新潟一帯にでました。会社側は4月の操業開始時に機械の運転操作ミスがあり排煙を出したことを認めましたが、その後の被害に関しては因果関係の明言を避けました。農家側は納得せず、沼垂警察署の斡旋で会社側が補償料の支払いと設備の改善を約束しています。結局機械はうまく稼動せず、赤字となったため、昭和17年に化学肥料を製造する合成部門を分離して東洋合成株式会社を設立。石山工場は合成部門の東洋合成の工場と、硫酸部門の新潟硫酸石山工場に分かれました。

新潟醋酸株式会社も
大正6年に齋藤庫四郎(五代喜十郎)が中心となって設立された会社です。硫酸と文字が似ていますが、酢酸(さくさん)です。工場は山ノ下にあり、酢酸と食用酢を製造していましたが、数年で解散しています。

新潟の工業にはどんなものがあったか
昭和初期は明治からの近代化が進み、かつ戦時統制下でもないため、民間工業の事情を紹介するにはよい時期です。齋藤家が隆盛を極めている時期でもあり、その頃の新潟市の工業事情を少しご紹介します。・・・新潟事情(昭和9年:新潟商工会議所)より
石油  日本石油株式会社他、11の製油工場があり、東京、大阪、下関、名古屋、九州、台湾、朝鮮、北海道、樺太、大連へ移出されている。
人造肥料と硫酸  新潟硫酸と日東硫曹の2社があり、石油蒸留に要する硫酸製造の傍ら、副産物として人造肥料、過燐酸、配合肥料を製造している。県下の他、福島、茨城、長野、秋田へ移出されている。また新潟は農業県のため、毎年12月から7月までは輸入大豆粕と人造肥料の取引で倉庫が足りないくらい活気があった。
製紙  洋紙は北越製紙株式会社新潟工場があり、製品は群馬、福島、山形など隣県へ移出されている。粗紙は新潟製紙株式会社、新潟ガス株式会社があり、北海道、関東、中部、北陸へ移出されている。商品名は、時雨、柳、桃太郎、大菊、百萬両、白梅、浅草紙など。
綿糸紡績  名古屋紡績会社新潟工場があり、内地向けの太糸を主に生産している。県下の機業地域が主な移出先だが、愛知、北海道、福井、静岡にも移出されている。
製材  内地材は樺太材、北海道材、會津材。外地材は米材、沿海州材、シベリヤ材、豆満江材などを移入し製材加工している。
機械器具  刃物、精米機などの農具、船、車輌など。
新潟市に立地していた近代工業は、東京資本や中越地域の事業家の工場が多く、新潟市の財界人が中心となって設立された工場はあまりありません。商業家ばかりの新潟財界の中で、工業を基盤にもったのは齋藤家と数えるほどしかおらず、時流を読む先見性はここでも発揮されていたといえそうです。


姻戚関係と親戚関係 その関連会社

前述の系譜図と新潟商業銀行の設立発起人及び役員名簿を併せて参照いただきたいのですが、明治時代に齋藤家と姻戚関係にあった家とその事業をご紹介します。
加藤某・・・初代喜十郎の妻ヨイ(与以)の実家。詳細不明。
中山藤七郎・・・庫造の妻マサの実家。食塩・荒物商。二代喜十郎と同じく明治12年に区議になっている。明治29年の新潟商品取引所設立時の理事。明治37年の没後は次男の藤次郎が家督を継ぎ、後に漁業・運送業の新潟商事株式会社を創業。藤次郎は後に新潟商業銀行の取締役も務めている。
鈴木佐平・・・庫次郎の妻コウの実家。江戸時代は大問屋の間瀬屋、明治になると船用品店・遠洋漁業、現在の株式会社新潟ビルサービス。幕末の頃、六代目当主の妻は大倉喜八郎の実姉。歴史を大切にしている企業で詳細がホームページで紹介されている。株式会社新潟ビルサービス(間瀬屋の歴史)
柿本庄三郎・・・詳細調査中
小澤七三郎・・・タケの嫁ぎ先。江戸時代は在宿、明治に入ってから廻船問屋。明治29年に新潟運送株式会社を設立。その他に新潟曳船株式会社、新潟艀船株式会社、回船問屋倉庫株式会社など。海運、港運、倉庫、米穀商、油商など幅広く事業を行う。七三郎の弟幸次郎は長岡が本店の株式会社中越貯金銀行の頭取でもあった(新潟支店は本町通11。大正2年に営業上の失敗で解散。後の銀行統合以前の出来事で残存資料が少ない)。小澤家の建物は平成14年に新潟市に寄贈され現在は一般公開されている。詳細はホームページへ。北前船の時代館 旧小澤家住宅
伊藤文吉・・・四代喜十郎の妻ラク、五代喜十郎の妻八代重の家。旧横越村沢海。ルーツは江戸中期に遡り、一反ほどの農民から後々県下一の大地主となる。現在は豪農の館 財団法人北方文化博物館。詳細はホームページへ。
山本隆太郎・・・新潟運送株式会社専務取締役。越佐汽船株式会社取締役。新潟硫酸株式会社取締役。新潟煉瓦監査役。新潟商業銀行の設立発起人。家は東堀12の酒商で代々当主は平吉を襲名、隆太郎は六代平吉にあたる。日露戦争後沼垂で酒造も行う。銘柄は「今代一」「弥彦山」。後の今代司酒造株式会社。明治40年3月に新潟市議。長男の山本平吉(七代)は、今代司酒造株式会社社長、新潟硫酸株式会社監査役、県酒類卸協同組合理事長を務める。今代司酒造株式会社ホームページ
大塚益郎・・・庫之助の妻マツの家。小千谷市片貝。薬酒仙桃酒製造元。県議会議員。山口達太郎とも近く北越水力電気株式会社、中央石油株式会社、日本電気工業株式会社、長岡銀行、新潟商業銀行などの取締役を務める。本家の庭園の美しさは有名で絵葉書にもなっている。

(余談)大火にみる親戚の結束
明治41年3月の大火(若狭屋火事)では、齋藤本店(喜十郎)、齋藤支店(庫造)、上大川前7齋藤(庫之助)ともに類焼し、一家で小澤七太郎家(七太郎は明治40年に七三郎を襲名しているので七三郎宅の間違いではないか)へ避難したという記録があります。また支店のご老母(喜以)は鈴木佐平宅へも一時避難しています。親戚助け合って災難をしのいだ様子が伺えます。ちなみにこの火事では各家とも土蔵は残り、家財道具や帳簿類は災難を逃れたとあります。そのため、新潟商業銀行の食堂を仮事務所とし、事業の方も早々に復興させていった様子です。

海外への眼差し

ウラジオストクと樺太への視察
二代目喜十郎が樺太に向った時から40年後の明治40年、越佐汽船が新潟ウラジオストク直行航路を開設し、新潟から70人の実業視察団が出発しました。その中には当時早稲田大学生だった齋藤庫四郎(五代喜十郎)もいました。その年には対ウラジオストク貿易商社として海外貿易株式会社が設立されており、齋藤庫造が取締役に就任しています。

南支、南洋の視察
齋藤庫四郎は大正4年頃、南支、南洋貿易に興味を持ち、フィリピン、ボルネオ、セレベス、ジャワ、マレー半島、香港をはじめとする支那沿岸地方を廻る視察旅行にでています。

愛隣社による朝鮮半島の植林
明治44年、第四銀行頭取の白勢春三は朝鮮での農林業経営の二葉社を設立しました。この会社がもととなり、昭和7年に四代喜十郎らが出資し株式会社愛隣社となります。北朝鮮で400町歩の大植林事業を行いました。


国会議員 別邸の建築と新潟初の自動車

中央政財界との交流 〜粋な“旧齋藤家別邸”の建築
高額納税者ということもあり齋藤家からは議員が多く出ています。二代喜十郎と齋藤庫造、五代喜十郎は市議に、四代喜十郎は大正4年に衆議院議員、大正14年には貴族院議員となっています。旧齋藤家別邸の建設は大正7年ですが、四代喜十郎が中央の政財界とパイプをもったことが、あの粋で素晴らしい建物と庭につながっているのではないでしょうか。
中央政財界の人間は、明治中期からこぞって大磯に別邸を建てていますし、琵琶湖疏水を利用した豊富な滝水の庭が有名な京都の南禅寺界隈別荘群も明治後期です。広い庭のある別邸というのは、当時の政財界人の「夢」だったように感じます。また、齋藤家と姻戚関係にある片貝の大塚家は見事な庭園があり有名でした。四代喜十郎が“想い”や“こだわり”を別邸に注ぐのは必然の流れだったかもしれません。
しかし、旧齋藤家別邸の素晴らしい造りを富商の贅沢とだけ見るのは惜しいと思います。自身の幅広い事業活動、各銀行金融関係、新潟商業会議所特別議員としての活動と新潟を代表しての中央政財界とのネットワーク・・・旧齋藤家別邸は喜十郎個人の贅というだけでなく新潟のための迎賓やロビー活動の舞台としても活躍しています。
大正3年から4年にかけては日本が第一次世界大戦に参戦した時期です。第一次世界大戦の頃、日本は総じて好景気といえます。対華21か条要求にみられるように“欧米に肩を並べた”と文明開化からの勢いがピークとも呼べる時期です。齋藤家の財力も化学工業品の需要増、投資先の好景気など好材料ばかりの時代です。“旧齋藤家別邸”の建築に至る背景には、時代趨勢も影響しているといえそうです。

“旧齋藤家別邸”の建築前は、料亭→医院だった


旧齋藤家別邸の場所は、それ以前には「医院」そしてその前は「料亭」でした。上の明治29年の地図によると「島清館」となっています。「島清館」は明治26年の大火で西堀前通8番町にあった料理屋「島清楼」が移転してきたものです。「島清館」となる前も当地は別な料理店「堀田楼」でした。「堀田楼」の開業時期は不明ですが、その頃から隣の「行形亭」とともに庭園が売り物だったようです。
旧齋藤家別邸建築以前の当地=料亭「堀田楼」の庭園はこちら
「行形亭」は江戸期の「越後土産(元冶元年)」にも見える料亭として有名です。こちらの絵からも砂丘を使ったスケールの大きな庭の様子が伺えますね。
「島清館」が明治の終わり頃に廃業し、その後、南浜通二番町にあった嶋村医院(嶋村信司)が移転。その時代も僅か数年で、齋藤家が取得し夏の別邸を建てました。嶋村医院の広告には「庭園内ニ閑静ナル療養室アリ」となっていて「医院」の時代も庭園を生かしたものだったことがうかがい知れます。

   
雑誌:新潟公友の広告 左:明治45年5月19日号 右:大正3年1月25日号

嶋村医院の存在を発見した新潟公友誌について、新潟ハイカラ文庫所蔵資料では上記画像のものでしたが、いつも当方の調査に有益な示唆を下さるK様が他の号を調査してくださいました。それによると、439号(大正元年12月1日)の広告までは「南浜通二番町」、441号(大正元年12月15日)の広告から「西大畑町(元嶋清旅館跡)」、454号(大正2年3月16日)の広告から「新潟嶋村医院」「庭園内ニ閑静ナル療養室アリ」、624号(大正5年6月25日)の広告まで掲載が確認できるがその後の号は残っていない。とのことでした。医院の移転開業は大正元年の12月ということになります。島清館の廃業は明治末頃で、島清館跡を嶋村先生が買ったのか、或いは借りたのかは定かでは有りませんが、其の後齋藤家が夏の別邸として造園改築していますので、嶋村医院の時代も数年です。そして嶋村医院は昭和の初めには西堀通3にあることが確認できています。
嶋村先生は日清日露の戦争で従軍した軍医です。軍職を辞した後、新潟市に開業したのは明治40年でした。風景などをペン画スケッチするのがご趣味だったそうです。庭のある医院も有名だったようで“粋人”ですね。古町5の洋酒食料品店「桃屋」の主人渋木秀吾が弟で、姻戚を辿ると小山内薫がいます。

西大畑通の地域特性
また、向かいの北方文化博物館新潟分館も古くは有力人の別邸でした。明治28年に長岡の清水常作(尼瀬の油田開発者の一人)が別邸として建てますが、程なく逝去し明治後期に六代伊藤文吉が取得。伊藤家の別邸として使われます。邸内にはいくつかの建物がありますが、瓦に家紋が入っており、清水時代、伊藤時代どちらの時代に建てられたものなのかを知ることが出来ます。現在近隣は密集した市街地になっており、さらに海側にも住宅が広がっていますが、当時は西大畑通は新潟町の淵でした。市中と違って広く土地を使え別邸や庭園、料亭などに好適だったといえます。市中に作れない広い施設という点では学校や監獄、病院といったものもあり、旧齋藤家別邸そのものの検証とともに、界隈の変遷も考えていくと時代背景などが見えてきそうです。

有名な新潟初自動車のエピソード
新潟市内に自動車が初めて入った(登録された)のは大正7年6月のことです。四代喜十郎の自家用車でシボレーでした。もちろん登録最初なのでナンバーは1番。後々県庁が自動車を購入した際に1番のナンバーを譲ってほしいと頼んだが、喜十郎は断り、県知事の車は100番になったというのは有名ですね。四代喜十郎はこの時に日本自動車株式会社と特約し、県下総代理店として自動車販売、付属品販売、自動車修繕の事業を行う齋藤本店自動車部を設立しています。
余談・・・
この年は喜十郎の車の他にフォードT型が新潟市に一台入っています。この所有者は排水機などの発明家の樫木吉次郎。流作場三叉路付近でタクシー営業に使われたそうです。新潟の人物史では実業家が多く語られますが、新潟にとってこの樫木氏の排水機の功績は非常に大きいのです。当サイトでも後々触れてみたいと思います。


陸・海・空

幅広い投資
明治時代後半から戦前まで齋藤家が関わった事業は大変多く、調査が非常に難しいというのが実情です。日本の近代化とともに地方にも多くの企業が勃興し、地方の有力者の多くがそれぞれに出資したり、具体的経営に参画しなくとも監査役として名前を連ねていたり。また、それら企業が現在に存続し社の歴史を大切にしている場合は調査が出来ますが、すでに解散した企業だとそうもいきません。そのような僅かな資料の中ですが、齋藤家では新潟運送、新潟鉄工所、越後鉄道、イタリア軒、新潟水力電気、他港湾関係の各社にも参画していることがわかっています。銀行業と化学工業のほかに、陸運、海運などに力を及ぼしています。また昭和11年の新潟東京間の民間航空路開設の際、代理店となった新潟エキスプレスも齋藤家の企業です。

四代喜十郎世代の各事業と屋号
二代喜十郎のあと、四代喜十郎世代の四兄弟はおおむね担当があるようです。庫吉は四代喜十郎を襲名し宗家となり倉庫業や保険代理業、前述のような自動車関連や航空関連も本店宗家の関係です。そして銀行業と議員も大きな仕事です。庫造は母の喜以とともに明治17年に上大川前通8に分家、齋藤支店として海運・交易業を中心に活躍。“実業界海運界にかけての鬼才”と呼ばれファミリー企業以外にも港湾や貿易関係の会社に関わっています。庫之助は二代喜十郎が死去した後に分家し上大川前通7に移り、銀行や硫酸などの役員を務めます。庫四郎は五代喜十郎を襲名し、昭和初期の新潟の企業の多くに参画しています。
また、齋藤家の屋号が「山三」なのは皆さんご存知と思いますが、これは宗家の屋号になります。まず分家した庫造の齋藤支店(上大川前通8)の屋号は山三の上に横棒一本引いた「一山三」で、その後分家した庫之助(上大川前通7)は更に横棒が一本多い「二山三」になります。

齋藤家の事業のまとめ
おおまかな分類 主な内容
自家の事業 造酒問屋→廻船問屋(後に分家の事業へ)→倉庫業・保険代理業等、地主
文明開化・明治黎明期の官命による事業 銀行役員、川蒸気
主に姻戚や親戚関係で支配した事業 汽船業、銀行業、化学工業
商工会議所役員 公益事業への運動 鉄道誘致、信濃川改修工事の請願など
議員 市議、貴族院議員、衆議院議員
投資先 運輸系、石油系、電力系など

新潟市多額納税者調べ(新潟商工会議所60年史から上位10名の抜粋)
明治27年 明治34年 大正14年 昭和7年 昭和14年 昭和19年
鍵富三作 鍵富三作 鍵富三作 齋藤喜十郎 鍵富正作 新津義雄
齋藤喜十郎 齋藤喜十郎 齋藤喜十郎 鍵富三作 齋藤喜十郎 齋藤喜十郎
八木朋直 桜井伊八郎 田代三吉 高橋高四郎 和田喜一郎 白勢量作
鈴木長八 鈴木長八 小林孫二郎 田代三吉 田代三吉 田代一郎
白勢春三 白勢春三 伊狩忠蔵 浜田直次 敦井栄吉 藤田簡吉
桜井伊八郎 中山藤七郎 高橋高四郎 新津恒吉 浜田直次 竹山初男
竹山 屯 安宅善平 高橋藤太郎 高杉儀平 折戸善八 高橋助七
村田タイ 八木朋直 小林惣七郎 早山与三郎 飯山三治 和田喜一郎
篭手田安定 横山太平 小島藤蔵 高橋藤太郎 小野清三郎 小野清三郎
石黒忠作 小澤七三郎 行形松次良 行形松次良 田村貫一 大野市郎
二代喜十郎の時代 四代喜十郎の時代 五代喜十郎の時代

明治・大正と齋藤家は先取的な経営や投資を続けてきましたが、その後は新分野への進出には慎重で、他の財界人と比しても「保守的」と称されていたようです。昭和10年代に庫之助、四代喜十郎と相次いで亡くなっており、徐々に新潟の財界人の顔ぶれも変わっています。電力、石炭、バスなどで伸長してきた財界人が増え、齋藤・鍵富・白勢らは“旧財閥”と呼ばれるようになりました。

昭和16年1月15日 新潟新聞

戦後 旧齋藤家別邸のその後

進駐軍の接収と加賀田氏への売却
旧齋藤家別邸は、敗戦後、進駐軍(連合国軍)に接収されます。その後昭和28(1953)年に株式会社加賀田組の社長、二代加賀田勘一郎(1900〜1978)がこの邸宅を購入しました。歴代の社長一家が居住し、昭和57年には東側増築棟などの増改築が行われています。特に二代加賀田勘一郎は骨董収集と囲碁が趣味だったこともあり加賀田家時代には茶室や主屋を利用した茶会の開催、著名人の来訪、本因坊戦の開催など多様な文化交流活動が展開されています。

加賀田家と日本陶磁協会新潟県支部
美術工芸、特に陶磁器に造詣の深かった加賀田勘一郎は戦後、昭和25年に東京・根津美術館・根津嘉一郎を会長として発足した世界の陶磁工芸の研究、調査、普及を目的とした、社団法人・日本陶磁協会の新潟県支部を創設しました。同支部は加賀田勘一郎支部長、加賀田富士子顧問、その後の近藤種臣支部長から現在の小田良彦支部長、加賀田亮一顧問まで、地元の有志、茶人の協力を得て日本有数の支部へと発展してきました。
その文化活動の拠点として、加賀田家は一貫して、茶室・建物・庭を会場として提供し「展観と茶会」が毎年開催されました。 それを通して多くの市民にこの素晴らしい施設を認知されるきっかけとなり、その後の別邸の保存運動の核となったのは、その文化活動の成果ともいえるものでした。
戦前の斎藤家の時代、戦後の加賀田家の時代を年月で比較すればむしろ後者の方が長く、戦後の建物や庭の維持管理には並々ならぬご苦労があったと想像できます。建造した齋藤家の足跡と併せ、その建物や庭を維持継続し、広く市民に開放してきた加賀田家と日本陶磁協会新潟県支部の活動経緯も忘れてはならない重要な歴史の蓄積です。社団法人 日本陶磁協会ホームページ

市民運動により保存が決まる
平成17(2005)年に加賀田組が自主再建のため会社分割によって不動産事業を分離すると、この邸宅の所有権は有限会社アイ・ランド・プラスに移りました。このことを契機に市民有志が旧斎藤家夏の別邸の保存を願う市民の会(現・旧齋藤家別邸の会)を結成し、保存に向けた署名・募金運動、一般公開、議会への請願を行いました。その結果、市長宛に26,379名分の署名が提出され、市議会も請願を採択しました。今後は旧齋藤家別邸の価値や立地特性を活かして公共的な活用がされていきます。

また本宅の一部(燕喜館)は白山公園へ移築
また東堀通7の齋藤家本宅の接客部分は平成9年に白山公園内に移築されました。一般見学の他、奥座敷や茶室は各種茶会など市民の文化活動の場として広く親しまれています。新潟市 公園水辺課 燕喜館のページ


戦後 齋藤家のその後

戦後の齋藤家は新潟硫酸を主力とした活動になりました。終戦後の工業は混乱の世相と賠償政策もあり生産回復が遅れましたが、新潟硫酸は昭和21年4月に民需転換の復興重要工場に指定され過燐酸石灰の製造が始まりました。関連の東洋合成でも硫安の製造が再開しました。
工業復活もまもなく、五代喜十郎は昭和25年に66歳で亡くなり、六代喜十郎は庫太郎が襲名しました。この時の相続税は2千数百万であったといわれています。六代喜十郎はまだ30代で若く、新潟硫酸は社長が小澤國治、役員は齋藤一男、龍岡霞らが努めていました。
新潟人物読本(昭和28年)には・・・直系の当主六代喜十郎は東京で数年間下働きしてきただけに人間的には非常にくだけた男、会社の帰り際に社員と屋台店に付き合いもする庶民的な気分は親しまれ、人によっては新潟財閥の御曹司連中・・・(略)などの誰よりも出来ているとの評もある。将来は新潟硫酸社長となるため目下は現社長小澤國治について社長学の実習中である。 ・・・この一族で特記に値するのは、教養の度が地方豪族にしては珍しく高いことである。文学や絵書に対する深い造詣の持ち主が多い。

    
昭和25年9月12日 新潟日報・右はその後掲載された襲名広告

その後、昭和45年に新潟硫酸は日東硫曹、三菱ガス化学(肥料部門)と合併し株式会社サン化学に。サン化学は昭和58年に東北肥料と合併し、合併後の社名はコープケミカル株式会社になっています。

財閥とはそもそも
旧齋藤家別邸が保存運動をきっかけに市民の多くの方に知られるようになった際、よく耳に入ってきた言葉が“新潟三大財閥の一つ齋藤家”という言葉です。年配の方ならともかく、財閥という言葉は歴史の教科書の中にある“戦後のGHQによる財閥解体”くらいの感覚の方が大多数だと思います。経済史では=財閥とは、家族または同族によって出資された親会社と、それが支配している諸企業(子会社)による企業集団。家族を頂点とした多角的事業形態。というのが一般的な定義です。簡単に言ってしまえば、いろいろな企業経営を行っている富豪の一族といったところでしょうか。また、この財閥という言葉が使われ始めたのは明治時代中頃だそうです。

財閥のキーワード“一族”と“支配”
近代の新潟には多くの財界人、企業家、富豪、地主などがいます。その中で鍵富家、齋藤家、白勢家を特に財閥と呼ぶ所以はどこにあるのかを考えてみます。これは財力が抜きん出ているという単純な理由だけでなく、社会・経済・政治といった新潟のすべてに、ある程度の主導権と責任があり、それらの繋がりを一族で支配したり決定したりすることができたからです。
齋藤家の戦後がそれ以前と比較して力を弱めたのは、・戦前の政策による銀行の合併と淘汰によって金融支配力を失ったこと。・直系親族の有力者が相次いで他界し、多方面を経営支配するだけの豊富な人材に恵まれなかったこと。この二つが大きな理由です。

(余談)“戦後のGHQによる財閥解体”
これは一族が支配する大きな企業グループが「日本軍国主義を制度的に支援した」というGHQの考えから、それらの持株会社の株を政府管理下におき、傘下企業への指揮権を取り上げたものです。GHQの見立てからいっても、地方にある程度の支配力がある富豪(地方財閥)は同列に語られるものではありません。


齋藤家が新潟に遺したもの 過去とこれから

「齋藤家の歴史」は「新潟の近代化の歴史」
齋藤家は、幕末から明治にかけて清酒醸造から廻船問屋と家業を興し、汽船業・銀行業・化学工業という発展をとげてきました。また、その中で蓄積された富は、土地や株式といったものへも投資されています。この流れは新潟の近代化の歴史そのものです。
北前船で栄えた日本海側の他の港町と比べても、家業から法人化、企業勃興、銀行金融の発達、工業の発達など、新潟が先駆けている事は多くあり、これらに齋藤家は重要な位置で関わっています。比較する他の港町は新潟と同じく大きな米の集積地として栄えたわけですが、新潟はそれにプラスして、幕末の開港地であったことや県庁所在地として中央との結びつきが強かったことも影響しています。そのような点をふまえると「新潟らしい近代化の歴史」と言ってもよいでしょう。
また、齋藤家は確かに土地を多く所有しており地主とも言えますが、どちらかといえば「株主」であったと言うべきです。鉄道や電力など大きな資本が必要な産業へ積極的な投資を行い、近代化を下支えしています。その原資を辿れば新潟の農業生産にあるわけですが、その資金を社会インフラへ投資する流れを実践していた“社会的性格の強い”資産家として齋藤家は筆頭です。

盛衰が映し出すものを考える
時代にも産業にも盛衰の波はあります。新潟は後ろに米の一大生産地を控えた港町として江戸時代から近代にかけて発展してきました。そのなかで齋藤家は新潟にどのようなものを遺してきたのでしょうか。
齋藤家は「商業資本家」「金融資本家」「工業資本家」という道を歩んできています。しかし、今の新潟は商業も工業も空洞化、産業に元気がなければ金融も元気がありません。 まったく指向が違う三つの事業にように思えるかもしれませんが、各事業の盛衰の理由で比較して見るとどうでしょうか。共通点があるように思います。
「盛」・・・固有の特産品(一次産業とその加工品)があってこそ。米であり酒であり、石油があるから硫酸が必要で、農業があるから化学肥料が必要で、といった新潟ならではの産業構造の中で成立していた。
「衰」・・・制度の変遷、競争による空洞化。他所でも構わない、安い競合品がある等々という環境になると競争力が弱かった。

新潟のこれからは、衰の要素を避け、盛の要素を盛り立てていけばよいのではないでしょうか。

新潟ならではのものが大事
競争競合しない固有のもの、すなわち空洞化しないもの
その場所にあってこそ存在意義があるもの

このように考えたときに、マッチする産業の一つは観光です。観光は交通やサービス業だけでなく、農林水産業や各種加工業など波及する範囲が広く裾野が広い産業です。 そして“旧齋藤家別邸”は、新潟らしい観光拠点として、地域の賑わいの場として、地域の誇りとして、様々な活用と期待がされています。

まちづくりを考えたときに
確かに旧齋藤家別邸は港町新潟の歴史を語る建物として、観光のあらたな魅力として期待されています。しかし、この建物の保存が決まり一般公開されたからといって結果や効果が即物的にもたらされるものではありません。

「まちづくり」のなかで旧齋藤家別邸をどう生かすか。
住んでいる我々が郷土の歴史文化をどのようとらえているか。

地域全体のこれからの存続を、我々が意識を高め取り組んでいくことが大切なのです。齋藤家の歴史が新潟に遺したもの、そしてそれを象徴する形あるものとして残った“旧齋藤家別邸”。この二つが教えてくれる方向が揃っているのは偶然ではないように思います。



今後も新たな資料の発見により加筆変更する場合があります

参考資料
新潟市史(平成9年)
家別書附五通(享保年間)
川村修就文書(新潟町中地子石高間数家並人別帳、新潟物持名前、北越秘説、窮民救方関係文書、各天保年間)
間瀬屋鈴木家文書
齋藤家文書
諸組家並小間石寄帳(元治元年)
越後土産(元治元年)
新潟市商業家明細全図(明治29年)
富之越後(明治36年)
新潟商工業史(明治43年)
新潟港史(明治45年)
新潟公友(明治45年、大正3年)
舟江遺芳録(大正3年)
越佐大観(大正5年)
新潟県総攬(大正5年)
新潟県人物誌(大正10年)
新潟百名士(大正13年)
新潟百紳士(大正14年)
新潟古老雑話(昭和8年)
新潟市史 旧版(昭和9年)
新潟事情(昭和9年)
昭和新潟人物誌(昭和10年)
越佐名士録(昭和17年)
新潟硫酸株式会社五十週年記念誌(昭和21年)
新潟人物読本(昭和28年)
新潟商工会議所六十年史(昭和33年)
新潟県酒造史(昭和36年)
新潟開港百年史(昭和44年)
佐越航海史要(昭和48年)
第四銀行百年史(昭和49年)
江差町史(昭和52年)
新潟市医師会史(平成3年)
出雲崎町史(平成8年)
海の富豪の資本主義(平成21年)